孤独の中に人生を深める濃密な時間がある:こども食堂店主のひとりごと

店主のひとりごと

おはようございます。

 

こども食堂【虎吉】店主・高木のひとりごとです。

 

本日のテーマは『孤独の中に人生を深める濃密な時間がある』。

 

病んでるのかしら?ってぐらいダークなテーマだけど、病んでるわけではないのでご安心を。

 

ポーっとそういうことを考えるのが好きなだけ。

 

孤独を感じてた期間が長かったもんで。笑

 

孤独がすごく怖かった時期もあるし、そんなこと一切気にしてなかった、いやむしろ孤独の方がいいって思ってた時期もある。

 

両方を体験して、そしてそれを受け入れてみえたこと。

 

孤独な時にどれだけ自分と向き合えるか、で人生って変わるなーっていうお話。

 

孤独っていう字面がもうなんか寂しそうよね。笑

 

月並みすぎるけど人はひとりで生きていくのは不可能で。

 

いろんな人と関わって繋がりを作っていくことで人生はより充実したものになっていくし、生きてることを実感できるのは人との繋がりを実感できた時なんじゃないかな、と。

人だけじゃない。

動物でも同じく。

犬とか猫とかといっしょに生活してると、もはや人間なんかなって錯覚するぐらいなじんでくる。

 

他にも牛とか豚とか動物の肉、植物の葉っぱとか実から栄養素を摂取することで体を作る。

 

どれだけ孤独と言い張ってても、それがないと死んでしまうので、厳密には孤独な人なんていない。

 

でも一日24時間ある中で、常時そういった繋がりを実感できるわけじゃない。

 

それを実感できるのは人にもよるけど一日の半分ぐらいなんじゃないかな、と。

半分もあればいい方かしら。

 

仮に半分だとして、もう半分は完全にポツンと孤独を感じる時間。

 

まぁ、もっと厳密にいうとその孤独と言ってる時間でも、酸素を吸って二酸化炭素を吐いてるわけだから、光合成をする植物とは間接的には繋がってたりするから、完全に孤独というわけではないけれども。#ヘリクツ

 

とはいえ。

コミュニケーションをとってるわけではないから、孤独と言えば孤独だ。

 

僕は一時期、いや、わりと長い期間、そんなふうに孤独を感じる時間がこわかった。

 

っていうのも、僕は物心ついた時から誰にも心を開けなかったから。

 

その原因はオネショ。

 

その話は長くなるので詳しくはコチラに⬇️

 

「オネショ」は怒るととんでもないことになるので絶対怒らない方がいい

 

孤独がこわいと感じたのは二度目の転校をした9歳の時。

それまでは比較的大丈夫で、むしろひとりでいる時間の方が好きだった。

ひとりで引きこもって絵を描いたり工作したりする時間とか虫を捕ったり魚を捕ったりする時間が僕にとっての至福の時間だった。

「ひとり」と「孤独」は違う。

ひとりは誰かしら繋がりを感じてる。

転校するまでは幼なじみの気の合う親友がひとりいたから孤独を感じたことはなかった。

その親友と繋がりを感じていたのだ。

つくば市に転校してからはそのひとりを楽しむ時間が少なくなった。

 

その代わりにいろいろ考える時間が増えた。

 

この時からどこか孤独を感じていたからだ。

 

なんせ誰とも繋がってるという実感がなかった。

 

親には心開いてないし、友達はいるにはいたけど、出会うまでのおよそ10年ぐらいのことを僕は知らない。

 

他の子たちはその期間一緒にいて、すでに出来上がってる空気感がある。

 

その輪の中に入り込むのはなかなか大変で、どうしても踏み込めない領域というものがある。

 

僕がいない時の話をされると僕はただ聞くしかなくなる。

今考えたら「そこにおれがいたらどうなってただろうね〜」ぐらい言えたらよかったのになぁ、とか思うけど、その当時はメンヘラ全開で、それが「疎外感」という認識になってしまってた。

 

もっとひどくなったのは中学生に上がる時。

 

小学校卒業と同時につくば市から大阪に転校。

 

この転校によって僕の心は完全にシャットアウト。

 

唯一まともに向き合えたのはバスケットボール。

 

バスケがなかったら僕は廃人になっていたかもしれない。

 

ただ、バスケはチームスポーツ。

仲間とのコミュニケーションは必須だし、部活動なので団体行動をしなければならない。

 

友達がまったくいなかったわけではないけど、心を許せる友達はいなかった。

 

中1の夏ぐらいに軽いイジメにあった。

ホント軽いの。

 

それでも、相手にされないよりはマシだ、と抵抗できなかった。

 

孤独を感じるのがこわくて、四六時中「どうしたら仲間はずれにされないかな」とか考えたり、友達が他の子としゃべったり遊んだりしているとひどくジェラシーを感じたりしていた。

 

メンヘラここに極まれり。

 

さらにタイミングが悪いことに、僕はこの時期に爆発的に身長が伸びて、成長痛でヒザが痛くて半年ぐらいまともに動けなくて部活は見学せざるをえなかった。

 

悔しいやらこわいやら情けないやらで感情がグチャグチャになってた。

 

それでも中学2年の後半ぐらいからレギュラーで出てたのはすげーなと、自分で自分を褒めてあげたい。

 

中学校3年間は部活という強制的な団体行動があったものの、体の成長とともに心はどんどん閉ざされていって、孤独を感じる気持ちはどんどん強くなっていった。

 

その後も大人に近づくにつれ、どんどん心は閉ざされていき、孤独もどんどん深まっていった。

 

孤独が深まっていくと、そのぶん考える時間がどんどん増えた。

 

その考える中で自分と向き合うことができたことは間違いない。

でも、人と繋がった実感がある今、思うことがある。

孤独を感じてたのは僕自身の問題で、もしかしたら何人かは僕に対して繋がりを感じてくれていたのかもしれない。

僕さえ心を開けばその人と繋がりを感じれたのかもしれない。

でも僕はそれを自分で完全にシャットアウトしてた。

 

でも勝手に感じてた孤独があったからこそ、その時間があったからこそいろんなことを考えることができて、人生の深みが増した。

その深みは今ではいろんな人の役に立ってると実感できる。

 

孤独を感じるのも繋がりを感じるのもその人次第。

 

中には孤独を感じることでありえないぐらい恐怖を感じる人もいるかもしれない。

でも人はそういう時にこそ自分自身と深く向き合うことができる。

そしたら人生が濃くなる。

 

どうせなら濃い人生にした方が面白いよね。

 

ご清聴ありがとうございました。

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