おはようございます。
こども食堂【虎吉】店主・高木のひとりごとです。
本日のテーマは『人をちゃんとみることができない人が多い』。
世の中にはいろんな人がいる。
感情表現がわかりやすい人。
何を考えてるかわからない人。
人によって言うことがコロコロ変わる人。
言い出したらキリがない。
僕がよく言われたのは「何を考えてるかわからない」。
これまで生きてきてほぼ全員じゃねーかっていうぐらい言われてきた。
それを言われていちばん混乱するのはワタクシなんだけど。
なんて思ってたけど、そりゃーそうなるよねーって後から理解できるようになった。
僕が感情を表に出してるつもりでも、他人にはそれが伝わりにくいのだと。
なぜそうなってしまったのか。
これは僕自身が過去にトラウマを持っていて、心を閉ざしてしまってたから本音を言うことができなかったから。
だから僕の気持ちがわからなくてそういうことになってしまったんだ、と。
そして多くの人が離れていった。
それにしてもあまりにも人のことちゃんとみない人って多すぎじゃない?
と、声を大にして言いたい。
よくみてない人がやりがちなのが他人のことを自分のモノサシで計ってしまって決めつけてしまうこと。
僕自身、イヤというほど決めつけられてきた。
内心、ハテナ飛びまくりでもはやプチパニック。
どこからそんな話になるの?って。
こういう場合、なぜか否定してもそれを聞いてくれないことが多くて、ホント辟易する。
なので言いたいやつには言わせておくことにした。
内心思いっきり見下されてることなんて知らないんだろな。
程度の低い人間だ、って。
もしくはそうやって見下させておいて油断させて何かを仕掛けてくるのかしら?
とか思ったりもするけど、そんなことする意味がわからないし、実際にその後何かがあったわけでもないのでその可能性はほぼ皆無といっていい。
人の脳みそはわからないことがあると、脳みそがそれを勝手に補完しようとする。
その補完は過去の自分の経験や記憶から引っ張り出してきて繋ぎ合わせたもの。
たぶんこんな感じじゃね?
的な。
人生でわりとたくさんのことを経験したと自負している人は「補完」することで、今までなんとなくうまいことやってこれたからけっこうな割合で人のことを勝手に想像だけで決めつけてしまう。
それを脳内だけでやるのはまだいいけど、声に出して言ってしまうのはいかがなものか。
○○っぽいけどどうなんだろうね~?
っていう感じならまだいい。
中にはそれを断定するかのように声に出してしまう人もいる。
それはよくないよ・・・??
人はホントによくみないとわからない。
みるっていうのは見る、観る、視るの三段階がある。
「見る」っていうのは視界に入ってきたものを脳が勝手に認識したもの。
「観る」は意識的に観察する。
話し方、仕草、目線、などなど。
「視る」は聞いた話からバックグラウンドを想像する。
どんな気持ちでこの場所までたどり着いたんだろう、とか。
中でもいちばん大切なのが「観る」。
これをしない人がたぶんほとんどなんだろうなーと。
わかりやすいのが話してる時。
表情とか空気感でその人がホントのことを言ってるかがなんとなくわかる。
ホントのことは言ってるんだろうけど、なんかまだ全部を言ってるわけじゃないんだろなー、とかも表情とか目を細かく観察してればわかる。
でも世の中にはそういう細かいところまでみれる人は少ないみたいで、なかなか共有できない。
観察することはできても、その先の「視る」っていうところまでできる人はホントに少ない。
一見元気そうにみえるけど、それはすごく苦労した過去があるからなんだろうなー、とか。
一瞬の表情とか仕草とかをみてればそれは容易に想像できるものなんだけど。
こういうことは言葉にできない部分がたくさんあるのでなかなか言語化は難しい。
感覚的なものに近い。
だからこそ。
およそ40年人間をやってきて、感覚が近くて「観る」を共有できる人はそれなりにいたけど、「視る」まで共有できた人はいなかった。
その事実に吃驚仰天。
「視る」どころか、「観る」すら満足にできてる人も少ない。
もっとよく「み」たらいいのに。
もっと細かいところまで観察すればいいのに。
その人がどんな経緯でそうなったのか。
今みせてるものがすべてなのか。
その裏には何もないのか。
それがわからないうちにその人のことを決めつけてしまうとてめぇの価値が下がる。
それでいいのか?
たぶんこういう「みる」っていうことは誰にでもできること。
みようとするかしないかだけ。
すごくシンプルだ。
ご清聴ありがとうございました。
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