トラウマは治すものじゃなく受け入れるもの:こども食堂店主のひとりごと

店主のひとりごと

おはようございます。

 

こども食堂【虎吉】店主・高木のひとりごとです。

 

本日のテーマは『トラウマはなおすものじゃなく受け入れるもの』。

 

トラウマは古代ギリシア語で「傷」の意味。

決して「虎」と「馬」ではない。笑

 

日本語では「心的外傷」と訳される。

 

だがしかしっっ。

 

心の傷は身体の傷とは違って外からみえるものじゃないし、本人が自覚できないものもあるから非常に厄介。

 

何が厄介か。

 

トラウマを自覚してたらそのトラウマと同じような場面に遭遇しそうになった時、事前に回避することができる。

 

でも本人が自覚してない心の傷があると、同じような場面に遭遇した時に突然気分が悪くなったり、頭が痛くなったりする。

酷い時は過呼吸に陥って命の危険すらある。

そんな大事になってるのに原因がわからなくて、まわりの人間が困惑してしまうことがある。

 

原因がトラウマだとわかったとて、それをどうすることもできない。

 

なんならそれがホントかウソかもわからない。

 

そういう経験がある人にしかわからないから、経験がない人は甘くみて「別に大丈夫でしょ?」とか言っちゃう。

 

これが非常に危険。

 

言われた方はそのひと言だけで絶望感を味わうこともある。

最悪の場合、その言葉だけでも気分が悪くなったり、過呼吸にまで発展することもある。

 

「あ…、この人何も知らないんだ、何もわかってくれないんだ」

 

ってなっちゃう。

 

僕にもトラウマはある。

 

小学校3年生まで毎日オネショをしていて、毎日親に怒られる、という幼少期を過ごした。

 

自分でもオネショの原因がわからず、対処しようがないのに毎日やってしまうことに対してもかなりショックを受けて心は傷ついてたし、その上さらに怒られることで、ナイフでついた傷の上からさらに包丁で刺されるみたいなことをされた。

 

それがトラウマになって、物心ついた時にはすでに親に対して心を開くことができずに、二十歳ぐらいまでずっと孤独を感じてた。

 

それがトラウマだと自分で自覚したのはそれから30年以上経った時。

 

だいぶ拗れてた。

 

なんせその間、まったく自覚がなかったから。

 

気分が悪くなったりとか頭が痛くなったりっていう症状が出ることはなかったから、そんなに大それたものではなかった。

 

でも確実に心に傷はついていて、その傷をえぐられたくないがために、無意識で心を閉ざしていた。

 

だから友達という友達ができなかったし、たとえ向こうが寄り添ってくれてたとしてもそれを素直に受け入れることができなかった。

 

物心ついてからおよそ40年。

 

心を閉ざしていたことは二十歳ぐらいで自覚してたけど、その原因は度重なる転校によるものだと思ってた。でもあるキッカケがあって、自分の過去を振り返った。

 

それでやっと幼少期のオネショが土台になってて、それでずっと心が閉ざされてたんだってことに気がついた。

 

そういえば、オネショのことを公言したことなんてなかったな。

 

あぁ、、僕にとってのそれは黒歴史だったんだ。

 

そのことが心の傷の土台になって、繰り返す転校によって傷はさらに深いものになった。

その傷をえぐられたくないから心の内をみせないようにした。

 

そもそもの原因はオネショだったのか、と。

でもそこに気づいたからには。

いまさらオネショをしてたことが恥ずかしいなんてことはない。

成長の度合いなんて人それぞれ差があるんだから、小学校3年生までやる子がいてもなんら不思議はない。

問題はそれに対しての親の接し方だ。

僕の親はその点で大きく間違えてしまった。

それが僕のトラウマになった。

でも自覚すると、それに対してどうすればいいかはわかる。

たぶんこれは治るとかそういう次元の問題じゃないんだろうな、ってことはなんとなく直感でわかった。

時間をかけてゆっくり向き合って受け入れるものなんだろうな、と。

心の傷は消そうとして消えるものじゃない。

忘れようとしても忘れれるものじゃない。

 

いつまでも残ってしまうものだ。

 

思い出せば心に負担がかかって、ちょっと胸が締め付けられるような感覚に陥ることもある。

その度合いがちょっとずつマシになっていって、いつしか人に笑って話せるぐらい受け入れれるようになった。

今ではもう笑い話のネタだ。

キッカケは、僕の場合は自分と同じような波長をもつ人間に出会って、その人が自分を受け入れてくれたことだった。

 

でも、やっぱりそういうトラウマを抱えた経験がない人はあんまりピンとこないのか、話をしてもすごい肩透かしを食らった気分になる。

 

親でもそうだった。

 

僕自身はもうそんなことは恥ずかしい過去でもなんでもなく、ただネタにして笑い話にしたかった。

 

親は自分たちが責められてるような感覚に陥ったのか、思ってた反応とは全然違うものが返ってきたので、諦めた。

 

血が繋がった親子と言えども、所詮他人だ。

 

育ててくれたことには感謝してるけど、人として尊敬はできない。

 

今の心境はもう別に会わなくてもいいや、っていう気持ちでいっぱいだ。

 

僕にとっては親はトラウマだ。

 

それがトラウマのいちばんの土台になってて、いまだに拭えてない部分。

 

血が繋がってない赤の他人がそんな僕をスっと受け入れてくれたことで、自分の存在価値と価値観がハッキリした。

 

そしてトラウマも一部受け入れることができた。

 

たぶん今、親と対面しても素の自分ではいられない。

 

「息子」としての自分を演じることしかできない。

 

まぁそれも親の責任なので時間が経てばそのうち素の自分で接することができるのかもしれない。

 

今は療養する時間としてゆっくり自分自身を労いたい。

 

もしこれを読んでたら、そんなわけなので気長に待っていてくれると嬉しい。

 

そのトラウマは親に対してだけじゃなく、自分と同じように接してくれる人以外にも発動する。

安心して素の自分を出せるかどうかは、自分と同じような波長の人間かどうかで決まるみたい。

 

それって人としてすごく大事な部分で、ほとんどの人は素の自分を出せてないんじゃないか、と思ってしまう。

 

そんなことは僕にはわからないけど、同じようにトラウマを抱えてる人はなんとなく雰囲気でわかる。

 

そんな自分がめんどくせぇな、って思うこともあるけれど、同じような思いはしてほしくない。

 

他人に寄り添うことで自分の心も同時に癒しを得ることができるっていうのもわかってるから、自分のリハビリも兼ねていろんな人に寄り添いたいなと思う。

 

ご清聴ありがとうございました。

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