おはようございます。
こども食堂『虎吉』店主・高木のひとりごとです。
本日のテーマは「こどもらしいって何やねん」。
要約すると「こどもらしいって言葉は完全にこどもを上から目線でみてるけど結局ナメられてるのは大人の方よね」。
今まで生きてきてたくさんの子を持つ親とお話させていただく機会があったけど、けっこうこの「こどもらしい」という言葉を使ってる方が多くて、その度に僕は違和感を感じていた。
別にそんな細かいこと気にせずスルーすればいいだけなんだけれども。
言葉として使ってるだけなのかもしれないし。
本心は違うところにあるのかもしれないし。
真相なんかハッキリ言ってわからないんだけども。
でも思ってないとその言葉って出ないよなーとか自問自答を繰り返してしまうし、こどもをそういうふうにみてしまったら人として終わりなので、自戒の意味も込めてここに書き留めておこうと思う。
◯◯らしいっていう言葉は個を尊重する意味で使う言葉だと思うんだけれども。
たとえば僕は名前が大輔なんだけど、僕がやりそうなことをした時、僕を知ってる人から「大輔らしい」って言われると「あー、僕のことをわかってくれてるんだなー」って、ちょっと照れくさくて嬉しかったりする。
僕は喜んでるし、それを言った人はなんか楽しそうだし、しあわせな空間が生まれてるので、それって素晴らしいことだと思う。
でも、こどもらしいっていう言葉はこどもを突き放してるような感じがして僕はすごく嫌な気持ちになる。
「お前とおれは違う生き物なんだよ」って言ってるみたいな、そういうニュアンスも含まれてるような感じがして。
いやいや…同じ人間ですやん。
たまたま先に生まれただけですやん。
自分も通ってきた道ですやん。
そんなことも忘れちまったのかい?
それなのになぜ別物として扱ってしまうのか。
こどもをナメすぎてて草生えるわ。
そうやってこどもをナメてかかると、あとで痛い目に合うってこともわからないのかい。
反抗期という名の超絶ムダな地獄みたいな時間を過ごさなければならなくなるのに。
そして逆にこどもからナメられる。
ナメられるような人に限ってナメられることをいちばん嫌がるという因果応報がここで生まれる。
こどもをナメてかかるような人は総じてプライドが中途半端に高い傾向にあるので、自分の方が上なんだっていう意思表示なのかもしれない。
この「こどもらしい」っていう言葉は、こどもにとっては疎外感を受けるものになる。
僕自身、こどもの頃に直接言われたわけではないけど、いかにも「あんたらこどもやねんから」的な扱いを受けてとてつもなく嫌な思いをしたことがある。
それは小学1年生の時の合唱大会の時。
そもそも歌うことと人前に立つことが好きじゃなかった僕は合唱大会そのものだけでも吐き気がするほど嫌なのに、その上さらに顔の横に手を開いてリズムに合わせて横に揺れるという地獄を味あわされた。
30年以上経った今でも鮮明に覚えてるぐらい強烈に嫌な記憶。
まぁ、それがこどもらしくとかそういう事に結びつくのかどうかは甚だ疑問だけれども。
僕の中では「あ、こいつら完全にナメとるな」だったわけで。
そもそもその前から明らかに「こいつらこどもだからってナメとるな」的な大人はたくさんいらっしゃって、そういう大人を僕は完全にナメ切っていた。
でもそれを表に出すことはしていない。
出すとよりめんどくさいことに発展することも経験してわかってたし。
こんな感じで。
こどもをナメてかかると逆にナメられてしまって、「大人ってしょーもないな」っていうレッテルを貼られてしまう。
そんなヤツばかりではないとは思いたいけど、100人のうちけっこうそんな人間は多い。
それは大人として、人生のセンパイとしてどうなのよ?
そしてナメられるような大人は総じて頭が悪いという印象を受けるし、けっこうな割合でそういう大人がいらっしゃるのも事実。
そしてそんなアホな大人が日本の首脳とかになってるという事実。
だから政治に興味ない人が増えて投票率も下がってる。
これでいいのか?ニッポン。
何歳だろうが関係なくひとりの人間として、接してたらそんな考えは絶対に生まれないので、まずはそこから改善すべきなのではないかなと。
こどもこどもって言うけどむしろアホな大人の方がよっぽどこどもだし、考えが浅い。
そんな些細なことだけどそんな考えもあるよってことで。
ご清聴ありがとうございました。
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