おはようございます。
こども食堂【虎吉】店主・高木のひとりごとです。
本日のテーマは『子どもを育てるための心理学』。
特に心理学を勉強したわけじゃない。笑
心理学はザックリ言うと仮説を立ててそれに基づいてデータを集めて、データをもとに立てた仮説が正しいかどうかを分析するというもの。
ちゃんと勉強したわけじゃないからなんとも言えないけど、必ずしもそのデータ通りにいくわけがない、っていうのが人間。
そのうちちゃんと勉強したい興味深い学問だ。
…の上で。
こども食堂を運営して日々こどもたちと接してわかったこと、こどもを育ててわかったこと、少年野球の指導者を合計10年ぐらいやってわかったことなどなど、こどもと携わることがけっこう多かった人生の中で、「こどもってこんな感じよね〜」がみえた部分をここに綴ってみようと思った次第でござる。
「こども」という意識をなくす
そもそも。
「こども」という括りで考えること自体が間違ってる。
いや。
間違いなくこどもなんだけども。
最初にめちゃくちゃ言いたいことは「こども」だからと言ってナメないでいただきたい。
…ってほとんどのこどもたちは思ってる。
こどもは思ってるほどこどもじゃないし、大人は思ってるほど大人じゃない。
こどもと大人の境目なんてあいまいなもの。
一応20歳あたりで成人ってことになってるけど、中身がまだまだこどもみたいな人もたくさんいる。
逆に10歳でそのこどもみたいな20歳よりもはるかにオトナの考え方ができる人もいる。
こどもと大人の境目なんてあいまいなもの。
僕が実際に体験したことで、「ナメてくる大人」に対して気持ち悪いという感情しか生まれなかったことがある。
僕は小さい時からわりと頭の回転が速かったので、ちょっとしたマセガキだった。
でも大人は誰ひとり相手にしてくれなかったので「普通のこども」でいるしかなかった。
世の中には、特に僕のまわりにはそういう人がたくさんいる。
だからこそ。
自分が「大人」と呼ばれる年齢になったら、それは絶対にやっちゃいけない、と心に誓った。
具体的に言うと、「でちゅよー」みたいな言葉使いをするとか。
ちょっと声を甲高くしてしゃべるとか。
いかにもな感じのこども扱い。
そういうのは自分がそれをやるって想像するだけで気持ち悪いので、普通に大人としゃべるようにしゃべったらどうなるんだろう?
と思ってやってみたところ、全然普通だった。
むしろそっちの方が「大人と同等に扱ってくれている」と感じて嬉しいみたいで、いろんなことをしゃべってくれる。
でも脳みそとか精神面はまだまだ未成熟な子が多いので、難しい言葉とかは使わないようにする。
じゃないとそれはそれで警戒されてしまう。
もし難しい言葉が咄嗟に出てしまったら、「あぁ、ゴメンゴメン。アホにはわからんなw」ぐらい言えたら最高。
さすがにこれはだいぶ仲良くなってからじゃないとなかなか言えないと思うけど、目標としてそれぐらいは言える関係性を作りたいところ。
でも難しい言葉を使ってしまったらまず「ごめん」と謝ることは大切。
こどもだってひとりの人間だ。
大人と何も変わらない。
そして自分のこどもだとて、「他人」であることを忘れちゃいけない。
胎児の時はへその緒でつながってるけど、いったん外に出てしまえばもう別々の人。
意志はひとりひとりがちゃんと持ってる。
そして「こども扱い」されることを嫌がる。
「こどもだから」と下にみる大人ほどこどもに下にみられることを肝に銘じておきたい。
失敗させて自立する心を養う
こどもは経験値も知識もまだ浅い人間の未成熟バージョン。
だから余計に。
好奇心が旺盛である。
いろんなことを新しいスポンジのように吸収しようとして時には失敗することもある。
むしろ失敗することの方が多い。
でも彼らは失敗を1ミリも怖がってはいない。
そして成功することを目指してやってはいるけど、必ずしもそこがゴールとは限らない。
挑戦することこそが彼らの目的で、自分の力で何もかもやってみたいだけなのだ。
でもほとんどの親は失敗をおそれて挑戦することをさせない。
人生において挑戦することをやめてしまったら後は朽ちていくのみになってしまう。
大事な我が子がそんなことになっていいのかしら?
それよりも、失敗をするっていう前提で見守ってあげた方がいい。
たとえば。
僕が実際にやったことだけど、2歳児の我が子を公園で遊ばせてる時に幅30センチ、深さ30センチぐらいの溝があって、その近くでヨチヨチ歩いていたのをジーッと傍観してた。
この時僕の頭によぎったのは「あぁ…溝に落ちる…っっ」。
でもその時の彼は虫を探してたのか葉っぱをみていたのか分からないけど、目をキラキラさせていたので、好奇心を爆発させている真っ最中だ。
それを止めるわけにはいかない。
なので僕は気づかれないようにさりげなく、いつ落ちそうになっても大丈夫な距離に近づいて、見守ることにした。
転んでも、頭を打つ以外のことはかすり傷程度ですむ。
転ぶことでケガしてしまったら、それはまだ自分の力では成功させることはできないんだ、と経験値になる。
逆に成功したらそれは成功体験で、彼の中で大きな自信になる。
結果、何事も無く彼はひどく上機嫌で僕のもとに帰ってきた。
「できた!」と言わんばかりの満面の笑みで。
それをみた僕も自然に顔が緩んだ。
ヘタに過保護にならずに見守ってよかった。
その時一緒にいた知り合いの方に、「あれを放置できるのはすごい」と言われた。
たぶんそういう親の方が多いんじゃないかな。
失敗してしまったのは、一緒に料理をしてて、ジャガイモの皮をピーラーでむいてもらった時。
その時まだ4歳ぐらいで、使い方を間違えて指を切って血が出て大泣きしてしまった。
それ以来、料理を手伝ってくれることはあっても、トラウマがあるから皮むきだけは絶対にしないと拒否されてる。笑
かれこれもう6年ぐらい。笑
でもそれは、失敗をして指を切って痛い思いをしたことで、「刃物は危険」っていう認識ができたから。
彼の中でその失敗が経験値になってもう二度とあんな痛い思いはしたくない、と学習したのだ。
もっと成長して大人になれば皮むきなんかヘッチャラになるかもしれない。
その時に笑って話ができればいいな、と思う。
親は失敗を見守って、失敗したら「なぜ失敗したか?」を一緒に考えてあげる、ぐらいの心構えでいる方がいい。そうするとこどもに「失敗しても大丈夫なんだ」っていう安心感が生まれて、失敗を恐れず挑戦することができるマインドになる。
それはこどもに限った話じゃないけど。
他と比べられることでできる溝
人の成長はそれぞれ。
赤ちゃんから幼児期まででいうと、首がすわって寝返りしてハイハイして、つかまり立ちして歩き出して。
それからしゃべり出すまではけっこうバラバラ。
ウチの子は大丈夫なんだろうか…。
そんな不安がよぎることもある。
ネットとかで調べても○歳では~みたいなことが書いてあったりするから余計にそれと比べてしまって不安になったりする。
でもあれはあくまでも目安で、平均的にだいたいこれぐらいでこういうことになりますよ、っていうもの。
必ずしもその通りになるとは限らない。
我が子もしゃべり出すのがけっこう遅くてやきもきしてたけど、別に必ずしもマニュアル通りにはいかないよね、と楽観的に見守ってた。
それが今ではしゃべるしゃべる。笑
あの時のやきもきした気持ちえを返せ。笑
人の成長ってホントにさまざまなんだなぁ、と痛感した。
それ以来、他の子とかおおよその目安とかと比べることは一切しなくなった。
元々比べるとかそんなことはしなかったけど、より一層しなくなって、その子だけをみるようになった。
それが今、虎吉でこどもたちと接する時に非常に役に立ってる。
でも世の中には比べてしまう人も一定数いらっしゃる。
あれはホントによろしくない。
それがまだ物心つく前とかだったらまだマシだけど、自我が出てきてから比べられるのはたまったもんじゃない。
比べられてもどうしようもないし、自分のことはどうでもいいのかな、と思ってしまう。
それが単発だったらまだいいようなものの、ずっと続くと確実に親子関係に溝ができる。
その溝はなかなか埋めれるものじゃなく、大人になっても引きずってしまうこともある。
僕自身、比べられたことはあんまりないけど、小さい頃オネショがなかなか治らず、毎日毎日親に怒られて、それがトラウマになって今も親子関係がギクシャクしたままだ。
⇒「オネショ」は怒るととんでもないことになるので絶対怒らない方がいい
大人もこどもも関係なく、人はそれぞれ個性がある。
まだ成熟してないこどもはなおさら、伸びしろだらけでまだ何者にでもなれる可能性があって、それは無限に広がってる。
比べることはその可能性を狭めることにしかならない。
仮にもし我が子にライバルができたら、「アイツと比べたらまだまだ負けてる」って思うこともあるかもしれない。
でもそれは本人が勝手に思えばいいこと。
まわりの人間がどうこういうことじゃない。
それにもし現時点で負けてるのだとしたら、それは本人がいちばんよくわかってることなので、まわりの人間に言われるとムカついたりしてムダに溝を生むだけで、誰も幸せにはなれない。
こどもの頃、親によく言われたのは
よそはよそ。ウチはウチ。
それをこどもによく言う親に限って比べてしまったりするんよね。
これも親子に限ったことじゃなく。。。
親はこどもと同い年
こどもは早く大人になりたいと思っている。
全員が全員というわけではないけど。ほぼ全員。
なのでこども扱いされるのを嫌う。
それは大人だろうがこどもだろうが関係ない。
歳が上だからといって偉そうにされるのは誰だって気分がいいものじゃない。
先に生まれただけで偉そうにしやがって、と。
後輩が自発的にそれを思って敬う気持ちを持つのは素晴らしいことだけど、歳上がそれを強要すると100%嫌われる。
親は人間としてはたしかにセンパイではあるけど、親としてはこどもと同い歳だ。
兄弟がいて歳が離れてるのなら親としても多少センパイと思うかもしれないけど、その子の親としてみたら同い歳でしかない。
先に生まれた兄弟と同じようにいくとは限らない。
だけど我が国ニッポンは「親は絶対」みたいな風潮があった。
親なんだから言うこと聞くのは当たり前だろう、的な。
時には暴力で支配しようとして偉そうにあぐらかいてやがる。
そんな親のもとで育つこどもはまともな精神状態ではいられないし、当然のように反抗期がやってくる。
反抗期はそうやって親が理不尽にこどもを押さえつけることで起きるもので、こどもに責任はない。
反抗期がくるのが当たり前みたいな風潮があるけど、決して当たり前じゃない。
甘えんな。
そういう親が多かったからそれが当たり前みたいになっただけ。
親が反抗期を作ってるのであって、こどもには何の責任もない。
事実、うちの妹は反抗期がなかった、と供述してる。
現代ではそういう親はだいぶ少なくはなったものの、まだまだたくさんいる。
親だからといって何も偉いわけじゃない。
常にこどもと同じ目線でみることが大切。
これも親子に限った話じゃない。。。
こどものためか?自分のためか?
人の為
と書いてニセモノと読む。
よくこどものためというセリフを聞くけど、それってだいたいこどものためになってない。
むしろそのセリフを吐いた本人が自分のためにやってることが多い。
しかも自分の名誉とか世間体とかそういう「エゴ」のために、こどもがその犠牲になってる。
その最たるものが「塾」。
僕の知る限りでは自ら行きたい!と言って塾に通ってる子は皆無。
みんな親に無理やり通わされてる。
その理由は、自分が高校に行ってないからせめてこどもだけは…っていう自分勝手なものもあれば、いい高校に行っていい大学に行ってもらいたいからとか、選択の可能性が広がるからとか。
自分の欲望のために行かせたいっていうのもある。
要するにこどもがいい学校に行けば親としてのまわりからの評価が上がる。
「お子さん東大なんですってね~、すごいわぁ~♡」「いえいえ~とんでもございませんわぁ~♡」的な。きもちわるっ。
そのためにこどもを利用してるにすぎない。
そんな親もいる。
おかげでこどもがやりたいことを自由にできない。
さっきも言ったけど、こどもには無限の可能性が広がってる。
今の時代はネットをうまく活用すれば大学はもちろん、高校すらも行く必要なんてない。
なんなら義務教育さえもべつに行かなくても、それぐらいの知識は身につけることができる。
さらにはネットを使えば小学生でもお金を稼ぐことができる世の中だ。
そうなると学校に行く時間すらムダになる。
こどもは親の自由にしていい道具じゃない。
ちゃんと意志を持った人間だ。
何がしたいのかをキチンと話し合ってそれを応援するのが親としてできること。
こどものためか?
自分のためか?
今一度よく考えてみて。
まとめ
こどもは育てるものじゃなく、勝手に育つもの。
自分が育てなきゃ…!って思えば思うほどうまくいかない。
逆にそれはこどもにも伝わるし、伝わればこどもにとっても精神的に大きな負担になる。
ひとりの人間としてみて、一緒に成長しよう、ぐらいの軽い気持ちでいれば子育ては楽しくなる…ハズっっ。
少なくとも、「こども」としてではなく、ひとりの人間としてみればいろいろみえてくるものもある。
それをよくみていれば自ずとその子の本質がみえてくる。
本質さえみえればあとはそれに反することをしなければすごくいい関係が築けるようになる。
心理学とは程遠いかもしれないけど、僕なりに考えて行動した結果、こどもが素をさらけ出して本音をしゃべってくれてるっていう実体験をまとめてみた。
お役に立てれば幸いでござる。
ご清聴ありがとうございました。
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