学校なんていらないんじゃないか問題はかなり根っこが深い:こども食堂店主のひとりごと

店主のひとりごと

おはようございます。

こども食堂【虎吉】店主・高木のひとりごとです。

 

本日は『学校なんて要らないんじゃね?』という、いろんなところから反感買いそうなテーマ。

 

学校は中学校までの9年間は義務教育なので親がこどもに教育を受けさせる義務が発生する。

 

でもいろんな話を聞いてると果たして今の世に学校という制度は必要か?と、疑念がわいてくる。

僕自身も「なんで学校行かなアカンのかしら?」と学生の時思ってたし、高校すら行く気なかった。

でもいとこの兄ちゃんに「だいすけ。高校は行っとけよ」って言われたので行った。

 

学校に行く目的のひとつに勉強がある。

勉強の目的は知識を深めること。知らないことだらけのこの世界のことを少しでも多く知って人生を楽しく生きていこう、というのが勉強の目的。

でも正直学校で習ったことが大人になって活きてるのかどうかは微妙なところ。

肌感では2割ぐらい。

算数とか漢字とかは習っといてよかったなぁと思うけど、その他の知識は別にどっちでもよかったんじゃないかなーと思うレベル。

今ならネットでいくらでも学ぶことができるからわざわざ学校に行かなくてもいいよね、って思う。

 

そもそも、学校っていう制度ができた当時はインターネットはおろか通信手段が電話もまともになかった時代だから学校っていう場所に通うしか方法がなかった。

 

じゃあ何のために?

 

社会性を学ぶため。

 

なんて言葉をよく聞きますが、しょせん学校なんてたまたま近所に生まれた同い年の子どもたちの寄せ集めでしかない。by甲本ヒロト

その中に気の合う人間がいればラッキーだけど、やはりしょせん寄せ集めなので気の合う人間なんていないことの方が多い。

 

そうなると無理やりにでもまわりの人間に合わせないといけなくなる。

別に無理やり合わせる必要なんてまったくないけど、人間は群れたがる生き物で変に仲間意識が強い。

 

仲間はずれにされたくなくて無理やりまわりに合わせてしまって、その結果自分を見失ってしまう人も少なくない。

ちなみに僕はそんなタイプ。

人間はひとりでは生きていけないことを本能で理解しているので、大昔の猿の頃から群れを作ってみんなで協力して生きてきた。

 

その名残は現在でも根強く残っているけど、時にその習性は「イジメ」という残酷なモノを生み出してしまう。

 

これはどの時代でも関係なく起こっていて、もはやそれすらも人間の習性なのだろうなと。

 

イジメをしてしまうのは人を見下したいとか他人よりも優位に立ちたいとか、そういった闘争本能みたいなものがあるから。

じゃあその闘争本能はどこからくるのかというと、自分の遺伝子を残したいという部分から。

 

そう考えるとイジメをしてしまうのは本能によるもので、人間である以上仕方のないことなのかと思わざるを得ない。

 

だからこそどの時代でもイジメは存在するし、なくそうと努力しても一向になくなる気配がない。

 

イジメをする側の人間は精神的に成熟していなくて、自分を成長させようなんてまったく思っていない。

 

他者を蹴落として自分が優位に立とうとする迷惑極まりない存在でしかない。

 

そしてイジメられる側に共通するのは優しくて気の弱い人間だ。

 

イジメる側のことですら気づかってしまうような。

 

イジメを苦に自ら命を絶ってしまう子どもも後を絶たない。

 

そんなことが起こってるにもかかわらず、平気で知らん顔して放ったらかしにする大人もこれまた後を絶たない。

 

子どもは親にとっては唯一無二の存在。

 

なぜ放ったらかしにできる?

 

僕が学校なんていらねーと考える原因の主な部分はここ。

 

僕自身イジメられた経験があるので、ここは看過できない。

 

幸いなことに僕の場合はそんなに大きな規模のものではなかったけれど、世の中にはもっと酷い目に合わされてる子が何万人も存在する。

 

その原因を作っているのが今の学校というシステムだと思う。

 

全部が全部そうとは限らないけど、近所の同級生の寄せ集めによってそういう悲惨なことが起こるぐらいならもっと他にやり方があるんじゃないか、と。

 

今の時代に相応しいやり方が。

 

勉学を学ぶことを目的とするならネットでいくらでもできる。

 

社会性を学ぶのもネットでもやろうと思えばじゅうぶんできる。

 

ただ、ネットでできないのは直接対峙して空気を共有すること。

 

今の子どもたちはオンラインゲームのチャットで会話をしていることが多々ある。

同じ趣味嗜好の人間が集まっているので、気の合う可能性は少なくとも学校の寄せ集めなんかよりはよっぽど高くなる。

 

そうやって少しずつ親睦を深めていって、お互いに会ってみたいと思えば会えばいい。

 

そうやって少しずつ気の合う人間を、仲間を増やしていけばいい。

 

学校という場所は多勢に無勢になることが多いので、気の弱い人間からすると毎日戦場に乗り込むようなもの。

 

毎日精神をすり減らして生きている。

 

それを人生における修業だと思う人もいるだろう。

事実、僕自身はそれがすごくいい経験になったし、そのおかげで人の痛みがわかるようになったんだと思ってる。

ただ。

でも僕はたまたま軽いイジメだったし、たまたまやりたいことがあったからそこに懸けることでなんとかやってこれたようなもの。

 

中にはそういうものがない子だっている。

 

そういう子が人生に何の希望も見い出せずに自ら命を落としてしまう。

 

そんな修業いらねぇよ。

 

そんな学校なんていらねぇよ。

でも学校っていうものの存在は大きくなりすぎてほとんどの人がそれが当たり前になってるのが厄介なところ。

根っこが深すぎる・・・。

 

ちなみに。

先ほど出てきた甲本ヒロトさんのお言葉の中には続きがあって。

「趣味も違うのに友達になれるわけないじゃん。山手線に乗ってて、『はい、この車両全員仲よく友達ね』って言われても、『いや、偶然今一緒に乗ってるだけなんですけど』って。友達じゃねぇよ。」

「ただ、友達じゃないけどさ、喧嘩せず自分が降りる駅まで平和に乗ってられなきゃダメじゃない?その訓練じゃないか、学校は。
友達でもない仲よしでもない好きでもない連中と喧嘩しないで平穏に暮らす練習をするのが学校じゃないか。だからいいよ、友達なんかいなくても。」

こうおっしゃっておられた。

それはホントにそのとおりで、素晴らしいことだと思う。

でもそれとこれとは話の論点が違ってて、その練習をするのにもある程度の平和が担保されてないとできないよねっていうお話。

 

ご清聴ありがとうございました。

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