楽に生きるためのレシピ「物事の本質をつかむこと」:こども食堂店主のひとりごと

店主のひとりごと

おはようございます。

 

こども食堂【虎吉】店主・高木のひとりごとです。

 

本日のテーマは『楽に生きるためのレシピ』。

 

物事には全部「なんでそうなったか」っていう核の部分が存在する。

 

それが本質。

 

そこを理解すると力が抜けて生きるのが楽しくなる。

でも物事の本質を理解してないといろんな意見に流されて精神的に追い詰められて自分を見失う。

ひどいと鬱になったり最悪の場合自ら命を絶とうとする。

そんな例はまれだけど、本質を理解してなくて何かにとらわれてしまってる人はどこか息苦しそう。

 

たとえば「学校」。

 

多くの人が行くのが当たり前と思って疑わない。

でもホントにそうなのか?

学校は人間が作ったもの。

そこには「なんでそうなったか」が存在する。

 

昔は学校っていうものはなく、寺子屋っていうところで学問とか礼儀作法を学んだ。

 

何のために?

 

立派な武士になるために。

寺子屋が盛んだった当時は、武士は職業のひとつで、立派な武士になることが憧れでもあったし、実際に暮らしも裕福だった。

そのためには剣術と学問は必須条件だった。

 

言い換えると、その時代を安心して生き抜くためにはそれが最善の方法だった。

 

この寺子屋っていうもの自体、「武士」を目指すためのものだった、と言っても過言じゃない。

 

この時代は士農工商の身分制度があって、武士は特権階級だった。

 

武士以外は「人」として認められてない。

 

だからみんなこぞって寺子屋に通わせようとした。

 

大げさに言えばそんな感じの世の中だった。

 

そういう意識は国民全体に広がって、寺子屋は日本中にできた。

そして文化として根付いた。

 

寺子屋は今でいう学習塾みたいなもので、国が無償で提供するというものではなく、個人で経営してた。

 

お金が無い家のこどもは教育を受けることができない。

 

時代が明治になって、政府の体制も大きく変わって、全国民がその教育を無償で受けれるようになった。

 

それが義務教育として法律になって国民全員が学校に行くのが義務になった。

 

でもいわば義務教育の本質は、武士になるための教育。

 

武士の収入源は俸禄といって、家柄とか領地によって幕府に決められてた、今でいう税金。

 

軍人とか政治家みたいな感じ。

 

つまり寺子屋の教育は今で言うと、公務員になるための教育と言える。

 

その中には警察があったり、政治家があったり、教師があったり、軍隊があったりする。

 

そしてそれらを目指すなら大学を卒業してた方が出世にも大きく影響するから、大学卒業という資格は持っておいた方がいい。

 

公務員だけじゃなく、一般の企業でも大卒は優遇される。

 

大卒で新入社員として就職という流れが大多数を占めていた時代がある。

大学を出てない人間はちょっと落ちこぼれ、的な見方もあった。

 

昔の寺子屋の流れは武士を育てるための教育で、その流れが一般企業にも広がった。

それだけじゃなく、国のドス黒い狙いみたいなものもみえなくはないけど。

 

義務教育の本質はここで、生きていくための手段のひとつにすぎないのにそれがすべてであるかのように洗脳される。

 

そしてそれが当たり前のものとして僕らは育ってきた。

 

でも今はもうそういう考え方と時代がまったく合ってない。

 

大学に入らないとなれない職業、医者とか教師ならそれは絶対条件だから行かないと話にならないけど、他はそうでもない。

 

大学でより深いところまで勉強したい、というのであれば行った方がいいと思うけど、そうじゃないなら別にわざわざ行く意味なんてない。

今はもう学校に行かなくたってネットがあるから知識は学べる。

小学生でも稼ごうと思えば稼げる時代だ。

たとえばYouTuberになったりプロゲーマーになったり。

ミュージシャンになる人もいるだろう。

 

YouTuberとかプロゲーマーっていうのはどの世代であろうが、やろうと思えばできる。

 

たとえばそれで生活できるだけの収入が得られていれば、学校に行く時間っていうのロスになる。

 

学校に行く時間があるなら動画を作ったりゲームの練習をした方がいいからだ。

 

それでも学業が優先、みたいな風潮はある。

 

生きていくために必要なのはどっちだ?

 

仕事の本質は需要と供給。

 

お金を払ってでもやってもらいたい側が需要。

お金をもらってやるのが供給。

 

世の中のほとんどのお仕事がそれで説明がつく。

 

説明がつかないのは公務員。

彼らは税金から給料をもらってるから需要もクソもない。

 

YouTuberは面白い動画を作ってそれがいろんな人にたくさんみられれば、みられた分だけの広告収入が得られる。

逆を言うとただ動画を作って投稿するだけでは収入は得られない。

たくさんの人にみられる動画を作るためにはいろんなことを学ばないといけない。

 

それこそ学校では教えてくれないようなことを動画にした方がいろんな人が興味を持つ可能性は高くなる。

 

でもそれはYouTubeに限ったことじゃなく、需要と供給の中では学校で教わったことのほとんどが役に立たない。

 

人がやりたがらないこと、できないことをお金をもらってするのが仕事なのだから、そういう意味での勉強は必須。

 

義務教育みたいに言われたことだけをやってればお金を貰えるような甘い世界じゃない。

 

プロゲーマーだってそうだ。

 

大会で優勝すれば賞金をもらえるプロゲーマーにとっては勝つことがすべて。

 

勝つためにはゲームの研究をしないといけないし、相手のことも調べないといけない。

 

そして何よりもその

プロのプレイをみて熱狂するファンがいる。

ファンはプロにとってはお客さんだ。

 

喜んでみてくれるお客さんがいるから大会が運営できる。

運営側はプロの人たちが気持ちよくゲームをプレイできるように努める。

 

そうやっていろんな人が携わることでプロの世界は成り立つ。

 

世の中の仕組みは全部そうだ。

 

そういったことも学べる。

 

YouTuberとかプロゲーマーは小学生でもなろうと思えばなれる。

 

そこではいろんな横の繋がりもあるから、社会性も学べる。

 

でもまだまだ経験値が浅いからそこは親が保護者としてついていけばいい。

 

そうやって社会の仕組みを学ばせればいい。

 

そんなふうに世の中の本質を知ると、世界が広がってみえたし、いろんなことがバカらしくなって頭がスッキリした。

 

そして何よりも生きるのがすごく楽になった。

 

どんな事でも「なんでそうなったか」を考えるのはすごく大変なことだし、めんどくさいことではある。

 

そういうのはそういう場面に立たされないと考えることもしないし、調べようともしないけど、いざそういう経験をすればそれは知識となって後々に生きてくる。

 

そして応用がきく。

 

いろんな場面でその問題の核となる部分はどこなんだろう?って探るクセがつく。

 

そうすれば余計なことを考えることがなくなるから生きるのがすごく楽になるし楽しくなる。

楽になるっていうのもすごく語弊があるんだけど。

僕の中での「楽」は精神的に自由でいること。

高校生の時、楽なバイトという名目で探したりしたけど、たしかにほとんど何もしなくても時給は発生するからお給料はもらえる。

でも精神的にはすごくしんどかった。

何もせずにダラダラ過ごしてる時間っていうのはすごくムダな時間を過ごしてるような気がして、苦痛だった。

それだったら体はしんどくても充実だと思える時間を過ごしてる方が気持ちがいい。

僕にはそっちの方が合ってるんだなと。

思った次第でござる。

 

ご清聴ありがとうございました。

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