勉強という呪いの言葉:こども食堂店主のひとりごと

店主のひとりごと

おはようございます。

 

こども食堂【虎吉】店主・高木のひとりごとです。

 

本日のテーマは『勉強という呪いの言葉』。

 

勉強って呪いの言葉よね。

やりたくないのに無理やり押し付けられたり。

塾にまで通わされたり。

 

言葉的にはふたつの意味があると思ってて。

 

ひとつは学校の勉強。学問とか呼ばれてるやつ。

もうひとつは自分の好きなこととかやりたいことの知識とか技術を身につけるために努力すること。

 

どっちも知識を身につけることには違いはないんだけれども。

 

後者は目的がハッキリしてる。

やりたいからやる。

好きだからやる。

 

それ以上の理由なんてない。

あえてつけ加えるとすれば、その先には自らの成長とかお金を稼ぐっていう目的もあったりする。

資格をとるためにする勉強なんかはまさにそれで、資格をとるのは何らかの仕事に結びつけることができるから。

 

そういう目的がハッキリしてるものを本来は勉強と定義するんだと思う。

 

意味がわからないのが学校の勉強。

 

これが本日のテーマで、まさに呪いの言葉だなーと。

 

今の日本の社会は勉強ができるか否かがひとつのステータスになってるところがある。

 

要は学校で学んだことがしっかり身についてるかどうか、が問われる。

 

勉強ができれば素晴らしい人間だ、みたいな風潮がある。

 

いや、あった。

 

今は昔に比べればだいぶ薄れたような気はするけど、それでもまだまだそういう風潮はそこかしこにある。

 

塾に通う小中学生がまだまだたくさんいることがそれを如実に表してる。

 

学校で学んだ知識が果たして何の役に立つのか。

 

僕自身、役に立ったなと思うことはほぼない。

 

歴史とか俳句とか、自分が興味あることだったら「あー、もっとちゃんと勉強しとけばよかったなー」なんて思うことはある。

 

でもそういうのはネットで調べればなんぼでも情報は出てくるから、その都度その都度調べたりすればそれで解決する。

 

そしてそうやって身につけた知識はわりといつまでも覚えてたりするので、しっかりと身になってる。

 

じゃあ学校でやったことって一体。

 

それを知るきっかけにはなったのかもしれないけど、でもきっかけなんてどこにでも転がってるしなぁ。

 

なので、学校で学んだ知識は僕はもうほぼ脳ミソの片隅に追いやられてしまって、カビが生えている。

 

こどもたちに教えることはたまにあるけど、教科書をみてなんとか思い出して自分もその時に改めて理解してなんとか教えれる程度。

 

しかもそれが何のために勉強してるかって言ったら定期テストのためとかそんな理由。

 

定期テストは内申とか通知表のためにやってることで、将来社会に出た時のためにやることではない。

もしくはいい大学とかいい高校に行くためとかそんな理由。

 

いい大学ってナニ?

いい高校ってナニ?

 

まわりの評判がいいとか、偏差値が高ければいい学校なのか。

 

そもそも偏差値ってナニ。

試験を受けた集団の中で自分がどのくらいの位置にいるのかを表す数値が偏差値。

 

何を競ってるの?

 

競い合うことは百歩譲ってべつにいいとして、それが何の役に立つの?

 

偏差値が高い学校に入って卒業すればお金を稼げるようになるのか。

 

100%そうだという保証なんかどこにもない。

 

日本なら誰もが知る東京大学。

 

あそこに入ることはものすごく難しくて死ぬほど勉強しないと入れない学校だ。

 

入るだけでまわりから「すごいねぇ」とか言われる。

 

東大に入って〇〇がしたい、という目的があるならそれは素晴らしいことだと思う。

 

でもほとんどの人がとりあえず東大に入っとけばなんとかなるっしょ、みたいなノリだ。

 

それならとっとと社会に出て荒波に揉まれた方がよっぽど人間的に成長できるんじゃね?

 

 

「いい学校」の基準なんて行った人にしか決めれない。

 

偏差値が低い学校に入ったとしても、そこで出会った人とバンドを組んでバンドが売れたりしたら、その人にとってはその学校はめちゃくちゃいい学校だ、って胸張って言える。

 

逆に。

 

世間的にいい学校と言われてる東大に入ったとしても、たとえばそこでイジメにあって学校に行けなくなってそのまま中退してしまったとしたら。

 

その人にとってそこはいい学校でもなんでもない。

 

むしろ嫌な記憶が残る場所になる。

 

ここはもうまわりがどう言おうがまったく関係なくなる。

 

その人にとって良いか悪いかがすべてだ。

 

それ以上でもそれ以下でもない。

 

学校での「勉強」はいい大学に行くことを目的に設定してることが多い。

 

いい大学に入って大手企業に入って安定した人生を。

 

なんてのが昭和のスタンダードみたいなところはあったんだろうけど、そもそも安定した人生ってなんだよ。

 

安定した人生なんかどこにもねぇよ。

 

どんな大手企業だっていつ潰れるかわからない。

絶対に潰れないと言われた企業だって次々潰れてる。

 

保証なんかどこにもない。

 

大手企業に入ったらもうそこで人生終了なのか?

 

逆だろ?

 

そこから人生は始まるんだろ?

そこから本当の意味での「勉強」だろ?

 

僕は義務教育なんて要らないと思ってる人間なんだけど、それも理由のひとつだ。

 

そんなことよりもそれぞれがやりたいことをやってそれを仕事にできるぐらいまで昇華して生きていく方がよっぽどイキイキしてそうだ。

 

その方がよっぽど希望に満ちあふれてる。

 

それなのにこどもたちはやれ中間テストだのやれ塾だのとブツブツ言ってる。

 

我々の時代と何ひとつ変わっていない。

 

かれこれ30年も経つのに。

 

僕は当時から「勉強って何なんだ?」

って思ってたけど、社会に出て世の中を知ってからなおさら勉強って呪いの言葉だな、と思うようになった。

 

そして呪いから抜け出せない人が圧倒的に多い日本社会。

 

のび太のママみたいな親がまだまだたくさんいらっしゃる。

 

いいかげん気づいた方がいいと思うんだけどな。

 

ご清聴ありがとうございました。

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