おはようございます。
こども食堂【虎吉】店主・高木のひとりごとです。
本日のテーマは『発達障害を持つ人との向き合い方』。
発達障害。
脳の機能の偏りにより、コミュニケーションや学習、行動に困難が生まれ、日常生活に支障をきたす状態。
最近「発達障害」という言葉にすごく過敏になった。
それもそのはずで、虎吉の若女将が発達障害の当事者だからだ。
身近な人が当事者なのであれば、いろんな情報が気になるのは至極当然の流れだ。
若女将が虎吉で若女将になってから、ずいぶん時間が経った。
とはいってもまだ1年。されどもう1年。
長かったような、あっという間だったような。
若女将が来てからというもの、いろんな出来事があったのと、僕が知らない世界を若女将が持っているのとで、非常に濃い時間であったことは間違いなく、人生はわからないものだなぁとつくづく。
濃い要因になったひとつに「発達障害」がある。
僕自身、生きてきた中でこんなにガッツリ発達障害の当事者と関わることがなかったから、何もかもが未知数で新鮮だった。
そんな中でいろいろ考えたことの話。
発達障害という色メガネ
発達障害は脳の機能の偏りによっていろんなことが困難になったりならなかったりするもの。
「障害」という言葉で括ってはいるけど、それが障害になるかどうかはその人の環境やまわりの人間関係によって変わる。
発達障害と対になってるものは「定型発達」。
この言葉を教えてくれたのは若女将。
たぶん自分でこの言葉にたどり着くのはかなり可能性が低かっただろうな、と思う。
定型発達の人ばかりの中に発達障害の人が混じると、発達障害の当事者はコミュニケーションとか行動とかがいろいろ困難になることもある。
でもそれもその定型発達の人たちの考え方とか人間性によっては、何も問題がなく「障害」にはなり得ないこともある。
逆も然り。
…とはいえ、発達障害の人たちばっかりの中に定型発達の人がポツンと入った場面をみたことがないからホントのところどうなのかはわからない。
発達障害を「精神異常者」のような色メガネでみる人ばかりだったとしたら、発達障害の当事者はコミュニケーションがとりにくかったり、行動に制限がかかることもある。
するとそれは「障害」となり、非常に生きにくくなり、鬱とか適応障害とか二次的な精神疾患につながったりもする。
発達障害という概念がない時代は、「変わり者」とか言われたり、中には「キチガイ」と言われたりして差別的な扱いを受けることが多かった。
その時代の負の遺産がいまだに根強く残ってる側面も多分にあって、発達障害というだけで変な目でみられたり、発達障害を免罪符のように使ったり、その言葉自体が危険物のような感じがしてる現代。
今も昔も大して変わらないじゃないか。
進歩しないねぇ。。。
僕自身はというと、発達障害という言葉は知ってはいたものの、その実態については全然知らなかった。
だけど、それがなんか香ばしい感じがしててすごく嫌だな、と感じたことは何度もある。
香ばしいの内訳は、差別的な要素が多分に含まれていること。
要は「おまえはおれたちとは違う」的なことにして仲間はずれにして相手に嫌な思いをさせる気持ち悪いアレだ。
多くの人は成長と共に感情や理性のコントロールができるようになっていく。
だけど脳の機能に偏りがあると、成長してもコントロールができない場合もある。
そしてそれこそが発達障害と言われる人たちの特徴でもある。
だから学校とか職場のような、定型発達の人がたくさんいるような環境では、うまくまわりの人たちと馴染めずに精神的な負担が多くなり、場合によっては鬱になったり適応障害を起こしたり二次的な精神疾患につながる。
「脳の機能の偏り」は誰しも持ってるものだと思うのだけど、そんなことは僕は脳科学者でもなんでもないのでわからない。
だけど、皆がみんなまったく同じになる可能性は限りなく低いはず。
ほら。木の幹とか年輪とかでも同じものはふたつとないのと同じで。
それを人は「個性」と呼ぶ。
多くの人は自分で自分をコントロールできるから、多くの人がいるような環境でもうまく馴染むことができるようになっていく。
「定型発達」の人にとってはそれが当たり前なので、発達障害の当事者がいろんなことに対してうまくいかないことを疎ましく感じることもある。
そしていろんな局面で大変な思いをしてるということがまったく理解できない。
ゆえに、発達障害の人を蔑んだり見下したりしてしまう。
「発達障害の人間は自分より劣ってる人間だ」と。
やがてそれは「差別」に発展し当事者を苦しめることになる。
だけど、ほとんどの人は「発達障害」の本質を理解しておらず、表面だけの薄っぺらい情報で得た知識に当てはめようとしてるだけ。
「あの人は人の気持ちを考えられないから発達障害だ」とか。
"人の気持ちを考えられない"なんてのは発達障害の当事者だろうが定型発達の人だろうが起こりうること。
そんな人間いくらでもいる。
本来発達障害とは何の関係もないことなのに、発達障害のせいにしようとする人が一定数存在するのも、発達障害が「色メガネ」になってることの証だ。
こういう「色メガネ」を通して他人をみようとするのは他の事象でも起こってる。
「東京出身だからってお高く止まってんじゃねーよ」とか。
「大阪出身だからなんか面白いこと言ってよ」とか。
その土地のイメージだけで人を判断しようとする。
東京にもいろんな人がいて、中には下町で生まれ育った人情にあふれる素朴な人だってたくさんいる。
大阪出身でもお笑いにまったく興味がない人だっている。
そんなことはその土地に住んでみればすぐにわかるし、テレビとかSNSとかをみててもちょっと想像力を働かせれば理解できる。
虎吉の若女将は東京出身で東京育ちだけど、大阪の人たちとも馴染んでワイワイできてるし、吉本新喜劇は大好きだ。
人は、生まれがどうとか、見た目とか、「表面上の情報」だけで他人を判断しようとすることが多い。
なぜそうなったのか。
歴史的な観点でみるとその謎は解ける。
日本は島国で、かつ村文化。
皆同じような見た目で同じような考え方を強いられる。
異形は弾かれる。
少しでも違う人間がいたらその人は迫害を受けたりする。
昔の日本人は海外の人を「南蛮人」と揶揄したりしてたし、いまなお外国人差別は絶えない。
もっと言うと、ホモ・サピエンスの時代から"他"を弾く「色メガネ」を持っていた可能性は否めない。
もはや遺伝子レベルで、僕ら人間は色メガネを持っていたんじゃないか?というのが僕の立てた仮説。
わりと当たってるんじゃないかなーと思うけどね。
この話は長くなるのでまた別で。
でも遺伝子だからと言って何もかも許されるわけじゃない。
いや、許されるとか許されないとかそういうことじゃない。
誰も幸せになれない。
色メガネで人をみたって何もいいことはないんだよっっ。
ふぅ…ちょっと興奮してしまった。
落ち着けワタシ。
発達障害と真正面から向き合う
前述の通り、発達障害は環境によってそれが「障害」に成りうる。
逆に言えば、環境によっては当事者が発達障害のことなんか1ミリも気にすることなく、ほのぼのと生きていくことも可能であるということ。
発達障害自体は「障害」じゃない。
これがややこしくて誤解を生む根源にはなってるんだと思うけど。
僕の個人的な主観になるけど、僕は発達障害を発達障害というフィルターを通してみていない。
人それぞれ名前が違うように。
顔の形や性格、考え方、好きな食べ物がそれぞれ全然違うように。
発達障害も同じこと。
脳の機能の特徴も人それぞれあって然るべき、という考え方を持ってる。
低血圧で朝なかなか起きられないとか、アレルギーで蕎麦が食べられないとかと同じ。
「こいつはこういう人間なんだな」
それだけですむ。
低血圧で朝なかなか起きられないのなら、起きる時間を早めて準備に時間をかけれるようにしよう、で対策を打つことができる。
蕎麦が食べられないのなら、大晦日に食べる年越しそばはうどんに変えればいい。
そばはアレルギーの人が多いから、うどん屋さんでも「これは蕎麦と同じ鍋で茹でています」とか表示があったりする。
やろうと思えば対策なんていくらでも打てる。
発達障害もそう。
対策を打とうと思えばいくらでもできるはず。
完璧な人間なんかいなくて、誰しもがどこかしらに他人が「えぇ……」って思うところを持ってるもの。
それをうまいこと出さないように振る舞うことが難しいのが発達障害の当事者で、多くの人がそれが原因で社会に馴染むことができずに苦しんでる。
若女将もそうで、最初はずいぶん苦労した、と言っていた。
僕が出会ったのは、もうだいぶ出さずに振る舞えるようになってからで、その当時の僕は若女将が発達障害を持ってるなんて思わなかった。
ちょっと他とは違う特性を持ってる人だなー、ぐらい。
その後、若女将は自らが発達障害当事者であることを僕に告げるのだけど、僕自身はそれを聞いても特に何も驚きもしなかった。
てゆーか。
発達障害という色メガネでみたところで、発達障害自体がいろんな形があるから、そこに当てはめようと思っても当てはまりきらない部分がある。
自分の中で当てはまったと思っても、見解がミリ単位で違えば、それだけで大事故につながることもある。
たとえば、発達障害の中でも多いADHDは、
不注意(集中できない)・多動性(じっとしていられない)・衝動性(思いつきで行動する)
という3つの特徴がある。
この3つの特徴のうち「不注意はあるけど多動性や衝動性はみられない」とか「不注意と衝動性はないけど多動性を色濃く持ってる」とかそれはその人によってバランスが全然違っていて、まったく同じ特徴を同じバランスで持ってる人はいない。
それを「発達障害」という大きな括りで片付けてしまうのは、乱暴にもほどがある。
「肌が黒い」という理由だけで差別するのと同じことだ。
「日本人は勤勉だ」なんて外国の人は言ったりするけど、日本人にも勤勉な人もいればすげー大ざっぱな人だっている。
発達障害を持ってる人だって同じこと。
その人がどんな特徴なのか?を深く理解してそれに対してどういうアプローチをすればお互いが幸せになれるか、を考えればいいだけ。
それは「発達障害だから」は関係ない。
むしろその色メガネを通してみると大きな見落としをしてしまう危険がある。
ひとりひとりがそういう意識を持って人と接すれば世界は平和になるのにな、と思う。
発達障害と向き合うための心構え
僕がなぜ発達障害に対して何とも思わない人間になったのか、を自己分析してみたところ、たぶん小さい頃に昆虫とか魚とかばっかり追いかけてたことが原因だと思われる。
僕はカマキリとかカメとかザリガニとか、いろんなものを追いかけては捕まえて、家に持って帰って水槽に入れて飼っていた。
カメは市販の「カメのエサ」があったので食には困らなかったけど、カマキリもザリガニも肉食で他の生き物を食べる。カマキリだったらバッタとかトンボとかチョウとか。ザリガニだったら魚とかカエルとか。
そんなものはどこにも売っていないので、僕が捕まえるしかない。
だからいろんな生き物をみた。
あの当時はインターネットがなかったので、図書館とか学校の図書室とかで図鑑をみて、いろんな生き物の生態を調べたりして捕まえに行った。
その道中で目的以外のいろんな生き物をみた。
彼らは僕が近くを通ると必死で逃げようとする。
たぶん、自分よりも大きな生き物が近づいてきたから命の危険を感じたのだろう。
彼らは実にいろんな形、大きさ、色で体が形成されている。
昆虫とか甲殻類、爬虫類とかは「見た目が気持ち悪い」って感じる人が多い。
見た目はそうかもしれないけど、彼らだって僕ら人間と同じようにい必死で生きようとしてる。
毎日観察してたからよくわかる。むしろ人間よりも純粋で必死になって生きようとしてるんじゃないかな。
彼らは言葉を発することはないから何を考えてるのかとか、どうしたいかとかは行動をよくみてないとわからない。
いや。よくみててもわからないことの方が多い。
でも毎日みてたら一匹一匹の性格とかがなんとなくつかめてくる。
同じ種類の生き物、例えばバッタでも個体によっては大人しめのバッタもいたり、信じられないぐらい荒くれモノのバッタもいる。
だから捕まえる時も、簡単に捕まえられるバッタもいれば、すごく捕まえにくいバッタもいる。
同じバッタでさえ「バッタはこうだ」なんてひとくくりにできるものじゃない。
さらに、その捕まえてきた生き物を水槽に入れるだけだと彼らは食べてくれない時もある。
カマキリなんかは死んだ生き物は基本的に食べない。
捕まえてから帰る途中で息絶えてしまうこともある。
そんな時は、糸で吊るしてカマキリの前でゆらゆら揺らしてまるで生きてるかのように錯覚させる。
そうするとあいつらは食べてくれることもある。
それも個体差があって、死んだ生き物は一切受け付けてくれないものもいる。なんてめんどくさい。笑
だけどそれが僕は楽しかった。なんせ同じ個体でもその日によって行動が変わるからだ。
そんなことを毎日やってたからだろう。「人それぞれ」という感覚が養われたのは。
あいつらに比べたら発達障害は脳の機能が他の人と少し違うっていうだけで、言葉は通じるし考えてることだって昆虫や爬虫類と比べたら格段にわかりやすい。
わかりやすいけど、人間は昆虫とか爬虫類に比べると心がかなり豊かで複雑。
個体差の激しさも昆虫や爬虫類と比べると段違いだ。
言葉とは裏腹な行動をとることだってある。その日、その瞬間に何を考え、何を目的に動いてるのか、を察知しないといけない。
そのためには、ひとりひとりと深くヒザを突き合わせてコミュニケーションを密にとって、かつそれを積み上げていかないと人間のことはわからない。わかったつもりでも、精神的に成長すれば昨日とまるで別人、なんてことはよくある。
だけど積み上げていけばその人の根幹的な性格はつかめてくる。
「土台がそれならたぶんコレはこう考えるだろう」
がわかるようになる。
それは発達障害だろうと定形発達だろうと同じこと。
同じ人間、同じ生き物だ。
発達障害との向き合い方はつまるところ、人間との向き合い方なのだ、と僕は思う。
ご清聴ありがとうございました。

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