ジェンダーについて考える:こども食堂店主のひとりごと

店主のひとりごと

おはようございます。

 

こども食堂【虎吉】店主・高木のひとりごとです。

 

本日のテーマは『ジェンダー』。

 

僕はジェンダーとかそんなことを深く考えたことは皆無。

 

人それぞれ好みがある。

カレーライスが好きな人もいれば嫌いな人もいる。

外野がいちいちそこに対してどうこう言う必要はまったくないし権利もない。

 

なぜそんなことが社会問題になるのか意味がわからない。

 

好きなもんはどうあがいたって好きなんだからいいじゃん。

ほっといたれよ。

そもそも男女である前に同じ人間なんだから。

人間が人間を好きになることの何がいけないのか。

 

同じ性別を好きになることを「ゲイ」とか「レズ」とか言ってカテゴライズするのもいかがなものかと。

 

それでいうと「オタク」とかもそう。

 

そんなことするから差別的な考えが生まれる。

 

好きになった相手がたまたま同性だっただけの話。

べつにいいじゃないか。

それは生まれついて持ったものだったりするから、本人でもどうすることもできないもの。

 

コントロールできるもんなら最初からやってるって。

 

人間が地球に誕生した時からそういう人はいたかもしれないし、いなかったかもしれない。

 

そんなことはわからない。

 

だけど、人間は動物であって動物でないようなもの。

 

野性味が失われてるから、動物の本能的なところがだいぶ薄れてしまってる。

 

人間は最初は猿だった。

 

ただ、脳がほかの動物よりも大きくていろんなことを考えることができた。

 

武器を作って自分たちより大きくて強い動物を狩ることができるようになった。

 

家を作って自分たちより大きくて強い動物から身を守ることができるようになった。

 

そうこうしてるうちに飛行機とか作って空飛んじゃうし。

 

自動車作って移動が早くできるようになったし。

 

スマホ作っていつ誰とでもすぐに繋がれるようになったし。

 

何百メートルにもなるデッカイ建物を作っちゃうし。

 

野性味のかけらもないじゃないか。笑

 

野性味がなくなるってことは本能的な部分も失われていくってことだ。

 

人間の本能でいうと、男性が女性を求めるのは交尾をするため。

子孫を残して種の存続を図るため。

 

ただそれだけだ。

 

その頃の人類に発情期というものがあったのかどうなのかはわからない。

 

少なくとも文明を築くようになってからは年がら年中発情期。

 

発情は自分でコントロールすることができないから、どうにかしてそれを処理するしかない。

 

そのために風俗というものが存在するし、なんならひとりでも処理することだってできる。

 

そのさじ加減は人それぞれで、発情しないっていう人もいるし、ひとりで処理したところで満足できないって人もいる。

 

戦国大名が小姓に性処理を施したり施されたりなんてこともあったから、わりと昔からそういう

文化はあった。

 

文明を築くようになったのは、人類の歴史の中でみればごく最近の話。

 

本能で女性を求めることが必要なくなってしまったから、その対象が同性になったとしてもなんら不思議はない。

 

誰が誰を好きになろうと外野が介入すべきじゃない。

 

自由だ。

 

ある日。

 

虎吉に男性を好きな男性の方がいらっしゃった。

 

僕自身、直接関わったことがなかったから興味津々で根掘り葉掘り聞いた。

 

今までそれでツラい思いをたくさんしてきたこと。

 

それでもやっぱり自分は自分らしく生きたいと思ったこと。

 

すげぇたくましい人だった。

 

だけど、みんながみんなそんなたくましく生きれるわけじゃない。

 

中にはそれを公言できずに苦しんでる人もいるかもしれない。

 

問題はそれを理解できるかどうかじゃなくて、受け入れることなんだと思う。

 

それは食べ物の好き嫌いと同じで、僕は魚以外の海の生き物は美味しいと思わないからわざわざ自ら進んで食べることはしない。

 

だけどそれが理解できないって人はたくさんいて、生まれておよそ40年、「もったいない」とか「人生の半分損してる」とか言いたい放題言われてきた。笑

 

美味しいと思わないのは僕の自由、というか生まれつきそうなんだからどうしようもない。

 

美味しいと思わないものを無理やり食べたところで不快にしかならないし、好きになることは無理なんだから。

 

人を好きになるのも同じこと。

 

あの人のどこがいいの?

 

みたいなことを言う人はたくさんいる。

 

ほっといたれよ。笑

 

人それぞれ好みがあるんだから。

 

自分がそれを言われたら不愉快になることが想像できない人はそういうことを言いがち。

 

異性が好きだろうが同性を好きだろうが言う人は言う。

 

他人のことをグチグチ言うヒマがあるんなら自分のことを磨けばいいのに。

 

その方がよっぽど幸せになれる。

 

僕自身、虎吉に来た男性が好きな男性の気持ちを理解することはできない。

 

だけどそれは向こうも同じこと。

 

僕が女性を好む気持ちを理解することはできない。

 

だけどわざわざ東京から大阪の虎吉に来た理由はそんなことじゃない。

 

こども食堂をやってることに興味を持ってくれたからだった。

 

だから最初はそういう好みがあることは知らなくて、こども食堂の運営方法やら、自分もこども食堂をやりたいという話で盛り上がった。

 

こども食堂をやりたいという人はたくさんいらっしゃって、そういうコメントやDMをたくさんいただく。

 

だけどその中で本気でやろうとしてるんだなって人は少ない。

 

僕は最初、その人もそういうフィルターでみてしまってた。

 

その話の中で自分が同性を好きになることを皮切りに、そういう想いがあるからこども食堂をやりたいんだ、ということを話してくれた。

 

この人は本気でこども食堂をやろうとしてるんだ、ということが伝わってきた。

 

、と同時に。

 

僕は自分でそういうフィルターで人をみることはいけないことだと言ってるにも関わらず、自分が思いっきりそれをしてしまってることにその場で気づいて、しばらく落ち込んでしまった。笑

 

その人はそういうフィルターでみられることは慣れっこで全然気にも留めてなかったんだけど、僕は自分の浅はかさにしばらくら立ち直れなかった。

 

でもそれも受け入れてくれて、最終的にはお互い頑張ろう!ってことで気持ちよく虎吉を後にしてくれた。

 

同性を好きになろうが異性を好きになろうがそんなことは関係ない。

 

人対人。

 

そこは何も変わらない。

 

なんなら他の動物だって同じこと。

 

人間は知らないものを怖がる習性がある。

 

知らないなら話をするなり、観察するなりしてその対象のことを知ればいい。

 

そうすれば受け入れることは容易い。

 

そんなことを感じた出来事だった。

 

ご清聴ありがとうございました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました