とりとめない話をしよう:こども食堂若女将のひとりごと

若女将のひとりごと

何を話していたのか、何かがあった時に話題が決まっていた時以外の場合は、さほど覚えてはいない。

たぶん取り止めの無い、他愛無い、中学生程度で話せる範囲のあれこれだったんじゃないかと思う。

とにかく、話が止まらない時は、卓球台に体育で使うマットを巻きつけて、自分たちの陣地を作って、その中で話し続けた。

夜9時以降は電気も消されて、その時間きっかりに眠りにつくこだわりを持っている子も居る病棟である故、ちゃんと声が漏れないように、懐中電灯の明かりも漏れないように、工夫して自分たちの場所を確保していた。

途中で看護婦が度々、注意はしに来るのだけど、思春期精神科病棟のベテラン揃いだもんで、中学生が話し込んでいるなど日常茶飯事。

注意は一応しましたからね、という顔をして「なるべく寝なさいね」と言うだけ言って見逃してくれた。

私たちも

わかってくれてるぅ!

さすが!信頼してるよっ!

ヨッ!美人看護婦っ!

とか何とか言って、また話の続きに戻った。

そんなこんなで、大抵ふと気がつく頃には空は白んで時刻は早朝を告げている。

申告さえすれば外へも出られる。

そうだと知ると、まるでそれが決まった流れのように、連れ立って近所にある、大きな池のある公園に歩いて行った。

その公園のすぐそばには、小さな商店があって、早朝限定で食パンの耳が

『ご自由にお持ちください』

と袋にパンパンに詰まって置かれている。

それを一袋手に入れて、池に向かう。

池には鯉と亀とヘラ鴨が居て、そいつらに袋パンパンの耳をちぎっては投げ、ちぎっては投げ、奪い合うように食い尽くすのをひたすら眺めるのだ。

生きてるねぇ!

うん。すごい生きてる。

とか、そんなどーでも良い事しか言わないで、パンの耳をちぎっては投げ、ちぎっては投げ。

30分もすればあれだけ袋パンパンに詰まった中身も食い尽くされてしまうので、さっぱりやる事が無くなった私たちは、そろそろ朝食の配膳車が動き出す頃の病棟に向けて、腰を上げる。

行きよりも少しだけノロノロと歩いて、そしてなぜかいつも帰りだけ手を繋いで歩くのだ。

何が始まりで帰りだけ手を繋ぐようになったのかはわからない。

男女のときめくような手繋ぎではなくて、兄妹のような感触であるし、朝まで話し込んだのが2人でなく3人だった時も、3人で手を繋いで歩くのがお決まりだった。

あれは何だったんだろう。

そうしてノロノロと歩いて坂を上って、古びた病院の離れの離れに位置された精神科、の、そのまた離れにある、自分たちの病棟に帰っていく。

いつもの朝と同じく、味気ない蓋付き食器に供された質素めな朝食、その食事に文句を言いながらいつもいちばんに食べ始める子に挨拶をする。

珍しいこの時間に起きてるなんてw

とか言われながら、各々の名札がついた食事をモソモソと食べて、昼までの4〜5時間眠る。

殆ど学校も無い、勉学なんてもっと無い、時間はある。

親が居ないかわりに口うるさいのは看護師(間違いなく親よりあの頃の私たちを知ってる)。

お金の無い国立病院だったから昼は電気は点かなくて薄暗い共用スペース。

そこでたぶん誰かと誰かと看護師が、卓球とか麻雀をやっている声が聞こえる。

 

次に話す機会なんてあるかわからない。

約束なんてしなかった。

次に託す希望とか期待は薄い子供たちで。

でも他に居ないから。

私たちは数日おきに、夜通し話をしていた。

 

我々にとってはよくある事だったけど、ああいう特殊な日常を送っている訳じゃない通常の中学生には、なかなか想像のつきにくい状況(日々)だったんだろうな。

そう思い至ったのは、大人になってからだったんだけどね。

他を知らなかったし。

囲いの外の生活をしている同年代との接点は、ネットもない時代だったから、殆どなかったからね。

自分と半径5メートルくらいまでの関わりの人間の事くらいしかわからなかった。

 

私たちにはごく自然だった。

誰かが企画した訳でも、けしかけた訳でもなく派生した夜中のとりとめない話。

それが必要だったのか、ただの暇つぶしだったのか、今となってはもうわかりようがないんだけど。

 

知り合う人の殆どが、施錠される鉄の扉なんかついてない所で寝起きして。

窓にも柵はあれども鉄格子はついてない場所から外を眺めて。

肉親にもほぼ毎日会っていて、何なら「親ウザい」のひと言くらいはバシバシ言ってた青春時代を送りながら育っていったりなんかして。

 

いわゆる普通と言われる範囲の、私が欲しくても手に入れる事が出来なかった生活。

 

『それ』を持っている人の方が世の中には多いのか。

と。

ひと頃は他人を羨んで歪んで、すげぇ嫌な奴になってたんだ私は。

若い頃からしばらくは。

たぶん自己憐憫に似た…いや自己憐憫そのものだったか。

そうやってどんだけも心を重くしてきたけれど、変わらないものは変わらないんだ。

無いものは掴めない。

 

たとえ私がもう少し偉い身分になれてたとしても。

もう少しお金持ちになれてたとしても。

中学生だった頃の境遇は、やっぱり変えられない。

 

ある時スフォッと諦めた。

 

たぶん暗く重く考え尽くすばっかりを長く長くやったので、飽きたんだと思う。

 

で。

暗く重く自分の過去を考える癖がだいぶ薄まっていってから。

しばらく。

いや、だいぶか。

だいぶ経ってから。

私の持つ、望まずして特殊な状態の日常を送らざるを得なかった記憶を、ほかの人には無い貴重な経験だと言う人間に会った。

 

生きていればそんな事もあるのだ。

あったのだ。

これから。

これからでいいのか。

これから、しかないのか。

 

だから。

これから、自分にあった事、それを踏まえて考えるようになった事、虎吉で過ごしていく中で思う事なんかを。

ポツポツ綴っていきますね。

今まだ断片だらけの話ばっかりだけど。

少しずつ。

 

もしわたしの奇特な経験値が、誰かの何かになるなら。

ならなくても。

暇つぶしでも。

何でもいい。

そしてまた。

とりとめない話をしよう。

 

そんな人生になるのも良いかも知れない。

虎吉に来てから、そう思えるようになった。

先見の明も千里眼もない。

これからの事なんて本当にわからないけれど。

ぼちぼちやってみますわ。

 

それでは今宵はこのへんで。

まだまだ拙い語り口に、お時間いただきありがとうございます。

ではっ。

おいとまいたしまっ。

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