おはようございます。
こども食堂【虎吉】店主・高木のひとりごとです。
本日のテーマは『フェミニンって言葉自体なんか不自然だ』。
フェミニンって「女性らしい」って意味なんですってよ。
それをつい最近まで知らなくて、なんか恥ずかしくなった。
ちょうどいい機会なので「女性らしい」ってなんぞや?
って考えてみた。
女性らしい
って、男性と女性では解釈が全然違う。
僕は男なので男目線からしかモノを言えない。
その上で。
そもそも。
この地球上の生物は男と女、つまりオスとメスの2種類しかいない。
カタツムリとか雌雄同体の生き物もいるけど、比較的稀な存在。
9割以上の生き物はオスとメスで分かれてるのが現状だ。
それは大昔、地球上に生き物が誕生した時からずっとそう。
たぶん恐竜もオスとメスで分かれてたんだろうけど、それが事実だったのかを僕らは知ることができない。
化石とかでは性別の判断は難しい模様。
でも卵の化石も残ってるからたぶんオスメスはいたんだろうな。
なんで生物はオスとメスに分かれてるのか?
それは種の存続のため。
少しでも子孫を残して種が滅びないように、っていう本能的なもの。
そしてこれはひとつの個体では不可能なことでもある。
カタツムリとかミミズみたいな雌雄同体の生き物ですら自家受精はできず、もう1個体相手が必要。
彼らは動きが遅く、自由に動き回れる範囲が限られている。
もし交配相手を見つけた時にそれが同性だったらまた違う場所に交配相手を探しにいかないといけない。
でも動き回れる範囲が限られてるから、次の相手がみつかるまで命がもつかどうかも危うい。
だから雌雄同体っていう形になった。
オスとメスで分かれてる多くの生き物は自由に動き回ることができて、範囲も広くて動きも速い。
だから相手を探すのもやりやすい。
しかもひとつの個体にひとつの生殖器しか持たないってことは、そのぶん生殖器を発達させることができて、より生殖行為がやりやすくなる、という利便性も向上する。
種の存続という本能をまっとうさせるにはオスとメスで分かれてる方が都合がいいわけだ。
中には生きてる間にオスからメスに性転換する生き物も存在する。
ファインディング・ニモのモデルになったカクレクマノミなんかがそのタイプみたい。
カクレクマノミは群れで生活するタイプで、群れの中でいちばん体の大きいのがメス、2番目に大きいのがオスになる。
ボス的な存在のメスが死んだり、群れからいなくなったりすると2番目に大きいオスがメスに性転換する。
っていうサイクルを繰り返してる。
他にもメスからオスに性転換するのもいるみたい。
今のところ性転換できるのは魚しかいなくて、他の動物にはみられない。
いろんな生き物がいるけど、どんな生き物でも種の存続は最重要事項だってことがわかる。
卵を守るために体を張ったり、自分の体をこどもたちに食べさせたり。
交配相手をゲットしようと同種同性の相手とケンカしたり。
それは人間でも例外じゃなく、異性をゲットしようとあの手この手を使って日々皆さんいろんなことをしてらっしゃる。
女の人が際どい感じのエロい服装をするのだって、本能的なもののひとつ。
男の生殖本能を刺激する効果がある。
我々男どもはそういうのに悲しいほど敏感に反応してしまう。
そういうことを踏まえた上で「女性らしさ」の本質を考えると、メスの求愛行動のひとつなんだと考えることができる。
メスはオスと交配して新たな命を生むのが生き物としての本能。
地球上にはさまざまな生き物がいる中で、より優秀な遺伝子を欲するのは種の存続を考えると当然のこと。
そのために自分をより美しく、艶やかにみせたりフェロモンを出したりして優秀な遺伝子を自分に引き寄せようとする。
…っていうのが生き物としての本能。
でも人間は感情が複雑な生き物で、本能よりも優先することがある。
それが恋愛感情だったり。
「みんながこうしてるから自分もそうでなければ」というマジョリティ(大多数)の意見に流されたりする。
恋愛感情はどっちかっていうと本能的なものであるにもかかわらず、それすらもマジョリティの意見に惑わされたりする。
そういう意味で考えると、「女性らしい」って一体何なんだ?ってなる。
女性は女性で生まれた時から何も変わらないし変えれるものでもない。
あえて「らしい」という言葉をつけること自体が不自然だ。
でもそうなってしまったのは、全世界で女性が虐げられてきたっていう歴史があるから。
女性は「人」ではなかった歴史が世界中にあるから。
たまたま「雌」として生まれただけで迫害されたり奴隷のように扱われたりした歴史が人類にはある。
その歴史から生まれたイメージというのはなかなか払拭できるものじゃない。
女性は生まれた時から女性で、異性に対して美しくみせようとしたり、可愛くみせようとするのは本能レベルで当たり前のこと。
でもそれはあくまで見た目とか表面的な話。
番(つがい)になるまでの話だ。
番(つがい)になったその先は人と人としての話で、オスとメスで分かれてることは特に何も意味がない。
とはいえ。
人間の三大欲求の中には性欲がある。
どこかで「女性」を感じないことにはその行為には至らない。
でも一緒に生活をしていて常に女性らしくある、というのはなかなか困難なものなんじゃないか。
これまでいろんな人とそういう行為に至ったけど、長く一緒にいればいるほど素の部分が出て、一般的な「女性らしさ」とはかけ離れた姿になったりする。
たとえばTシャツにパンツ一丁ノーブラで家の中をウロウロしたりとか。
寝起き髪の毛ボサボサだったりとか。
でもそんな表面的なことじゃないところに「女性」を感じるから性行為に至るわけで。
そもそも体の作りが全然違うからそこに対して性的な興奮を覚えたりして行為に至るっていう人もいる。
人によっては普段ちゃんとしてるのに家では超無防備な姿でいるっていうところに性的な興奮を覚えたりすることもある。
つまり。
人それぞれ感じるポイントっていうのは全然違ってて。
結局自分の好きな人が「女性らしさ」を感じてればそれでオッケーなわけだ。
マジョリティが望む「女性らしさ」を好む人ならそれを追及すればいいだろうし。
どこで「女性らしさ」を感じるかは人による。
問題はそんなことよりもそれを感じた後どうするかなんじゃないかな。
女性である前にひとりの人間で、人対人の関係が最終的なゴールであることは間違いない。
「女性らしい」はあくまできっかけにすぎない。
ご清聴ありがとうございました。
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