生と死:こども食堂店主のひとりごと

店主のひとりごと

おはようございます。

 

こども食堂【虎吉】店主・高木のひとりごとです。

 

本日のテーマは『生と死』。

 

なんとも壮大なテーマでござる。

 

壮大でありつつすごくアバウトでもある。

 

なんせ特にこれといった正解なんてない。

てゆーか。

そもそもそんなこと考えること自体がまれで、そんな人はほとんどいない。

 

人は常に死と隣り合わせ。

 

人だけじゃない。

 

命あるものすべてそう。

 

野生の動物ならその意識は常にあるんだろうけど。

 

野生といっても海とか山とか自然の中で生活してる者と、街の中で野良として生活してる者とではだいぶ変わってくる。

海とか山とか自然の中では食料を探すのがまず大変だ。

草食でも肉食でも。

人間みたいに必ずそこに行けば食事にありつけるという保証がない。

人間はお金さえあればとりあえず飢餓に陥ることはない。

今日はごはん食べれるかな

ちゃんと寝れるかな

なんて不安と常に戦いながら毎日を生きてる。

 

いや、そもそもそんなこと考えれる脳ミソがあるのかすら疑問だけれども。

彼らは人間のように考えて行動してるわけではなく、本能に従って生きてるのが多い。

人間目線で考えたらそんな感じなのかなーと。

 

そう考えると街の中で野良として生活してる者は自然の野生動物と街で生活してる人間との中間ぐらいの存在なのかしら。

 

なので野良が野生と定義できるのかはすごく微妙なところ。

 

でも野生とは言えないかもしれないけど限りなく近いんじゃないかしら。

 

彼らは毎日毎日生きるか死ぬかの瀬戸際で生活してる。

ごはんが食べられないかもしれない。

安心して寝る場所があるかわからない。

無事に明日を迎えられるかわからない。

 

ところで人間はどうだろう。

ごはんは家に帰れば何かしらある。

寝るところだってある。

毎日毎日明日が確実に来ると思って生活してらっしゃる。

 

死を意識してる人なんてたぶんほとんどいない。

 

でもそれはそれで素晴らしいことなのよねー。

 

平和ってたぶんそういうことだし。

 

先人たちの努力の積み重ねがあったからこその、安心して生活ができる環境。

 

僕らはその恩恵に与ってる。

 

第二次世界大戦の頃には考えられなかった平和だ。

 

とかいって第二次世界大戦を知ってるわけではないから想像でしかないけど。

 

あの頃の人たちは「死」というものが身近にあった。

 

食べ物だってろくにない。

 

ジブリの「火垂るの墓」をみてたら戦争の悲惨さが伝わってくるけど、あれはあくまで映画だからオブラートに包んでる部分もたくさんある。

 

実際はあんな生ぬるいものじゃないって誰かが言ってた。

 

いつ食べ物にありつけるか分からない。

 

今じゃ考えられないような生活が当たり前だった。

すごくいい映画なのに地上波ではもう放送してない。

生きることと死ぬことから避けたところで面白いモノづくりなんかできるかよ。

テレビが死んだ。

 

僕が身近に「死」を実感したのは小さい時。

人間以外の動物でたくさんの「死」を実感した。

 

虫が好きだった僕は、捕まえた虫を観察したくて水槽に入れて自分のそばに置いていた。

 

バッタ、トンボ、コオロギ、セミ、トカゲ、etc・・・。

特に好きだったのはカマキリ。

 

あの独特なフォルムがカッコイイのと、虫を捕まえて食べるところがみたくて毎年夏から秋にかけてカマキリを捕まえに草むらに出動していた。

 

その時のクセはいまだに残っていて、草むらをみると条件反射的にカマキリを探してしまう。

40超えたおっさんが。

はたからみたらただの怪しいやつだ。

 

彼らは動いてるものだったら何でも食べる。

 

僕はよくバッタとかトンボとかを捕まえてはカマキリのごはんにと水槽に入れた。

食べてるところがみたくてバッタとかトンボを糸でくくりつけてカマキリの目の前にぶら下げたりもした。

 

一方で、僕はバッタもトンボも好きだったので、それをカマキリに献上するのは、すごく複雑な気持ちになった。

 

カマキリ>バッタ&トンボetc

 

という図式が僕の中にはあって、カマキリを生かすことが最優先。

 

すまないが犠牲になってくれ。

 

という気持ちだったかどうかはわからないけど、申し訳ないという気持ちもどこかにはあったはず。

 

でもカマキリが好きだという気持ちの方が圧倒的に強いのと、単純な好奇心が勝って好きなバッタやトンボの「命」を犠牲にした。

 

人間は残酷な生き物だな。

 

いや、残酷なのは僕だ。

人間すべてが残酷なわけじゃない。

 

でも残酷な僕にも優しい心はあった。

 

自分のそばにいたカマキリが産卵を終えて死んだ時はすごく悲しい気持ちになっていた。

 

カマキリは卵から孵化するのは春。

生まれた時は1センチぐらいの小さな個体で、夏頃には成体になる。

 

成体になると繁殖をするために交尾をして卵を産む。

 

そうやって命は繰り返される。

 

彼らの寿命は長くても半年ぐらいしかない。

それは図鑑をみたり本を読んだりして学んだ。

当時はネットがなかったから、図書館に行ったり買ったりしないと調べることもろくにできない時代。それだけの熱量がないとできないこと。

よくやってたなぁ。

 

カマキリはオスよりもメスの方が体が大きくて、オスは交尾をするのも命がけだ。

 

油断すると交尾の最中といえどもメスに捕食されてしまう。

 

その様子を生でみるといたたまれない気持ちになる。

 

カマキリは好きだけどオスメスどちらが好きかというと、体の大きいメスの方が好きだった。

 

だからといってオスがどうでもいいわけではない。カマキリはカマキリだ。

 

それを観察できるのが嬉しいような、でもオスが食べられてるのをみるのは悲しいような、言葉ではどうにもこうにも表現できない気持ちになっていた。

 

そして卵を産んだメスは精根尽き果ててすぐに死んでしまう。

 

それはもう、ホントに全部出し切ったって感じで、ガリガリで抜け殻みたいだった。

でも僕の中ではもう死んでしまうの?っていう気持ちもあった。

 

なんせ僕は人間で同じ季節をこれから先何度も迎えることができるからだ。

 

でもカマキリは違う。

彼らは冬を卵で過ごして春に生まれ、秋には天寿をまっとうする。

 

同じ命なのにこうも違うものなんだ、と。

 

カマキリを通じていろんな「命」をみた。

食べる側と食べられる側。

同じ命で僕にとっては同じぐらい好きな「命」。

そんな命が食べたり食べられたり。

幼いながらもいろんなことを考えさせられた。

 

他にもいろんな生き物と共に過ごした。

カメが家に居た時は、冬眠させる時に葉っぱとか新聞紙とか温かくなるようなものを入れたんだけど、水分が足りなさすぎて干からびてミイラのようになって死んでしまった。

その時は悲しくて号泣した。

 

ネコは自らの死を感じた時、悟られたくないからひとりで息を引き取る。

その時もやっぱり号泣した。

腹ペコでガリガリだったノラ犬が僕にすり寄ってきた。

でも当時、その犬と一緒に生活することは不可能だったから無視せざるを得なかった。

その時は号泣はしてないけど、その犬がその後飢え死にしてたらどうしようとか考えたら胸が張り裂けそうになるほどツラかった。

 

いろんな生き物の「死」をみたおかげで、「死」をすごく身近なものとしてとらえていたんだと思う。

 

形あるものみないずれは朽ちていく

 

っていうのを受け入れるしかなかった。

人間も同じ動物だから「死」を迎えるのは当然のこと。

っていう考えがいつからか僕の頭の中を駆け巡るようになった。

 

だからなのか、自分の大切な人が亡くなった時には、悲しいという感情は出てこなかった。

 

じいちゃんが亡くなった時も悲しいという感情よりもお疲れさまでしたって気持ちの方が強かった。

 

じいちゃんはすごく優しくて一度も怒られたことがない。

すごく可愛がってくれていた。

 

そんなじいちゃんが僕は大好きだった。

じいちゃんに会えるのは毎年お盆と年末に家族で行く時だけ。

でも高校生になると、僕は家族で共に行動しなくなって、単独で鳥取に行くようになった。

 

僕が車の免許をとった時、じいちゃんの車で近所をドライブした。

 

その時のじいちゃんはすごく嬉しそうにしていて、僕もそれをみて嬉しくなった。

 

僕が20歳の時、じいちゃんはガンで亡くなった。

いきなり亡くなったわけじゃないし、死を覚悟するだけの時間はじゅうぶんにあったってのも悲しくなかった要因のひとつかもしれない。

 

亡くなってから20年以上経った今でも、じいちゃんが死んだという実感がない。

 

心臓が止まってるのをみたし、火葬場で焼かれて灰になったし、間違いなく死んだ。

 

じいちゃんはウチの母ちゃんにも優しかったから火葬場で号泣してる母ちゃんをみてもらい泣きはした。

 

でも死んだという実感はない。

 

それは、僕の中でじいちゃんは生きてるからだ、と思っている。

 

実感はないけど、受け入れられないわけじゃない。

 

お墓参りはちゃんと行くし、もっと戦争のこととかいろんな話をしたかったなぁ、とも思う。

 

だから受け入れてるのはちゃんと受け入れれてる。

 

何をもってして「死」を感じるかは人それぞれ。

 

ワンピースのチョッパーの師匠、「ドクター・ヒルルク」の言葉に

 

人はいつ死ぬと思う?

心臓をピストルで撃ち抜かれた時、違う。

不治の病に侵された時、違う。

猛毒キノコのスープを飲んだ時、違う。

 

人に忘れられた時さ。

 

というのがある。

 

ネイティブ・アメリカンの諺に似たようなものがあったり、いろんなところでこういった言葉は語られていて、世の中の真理だ。

 

僕がじいちゃんの死を実感できないのは、幼少期から身近に死があって、そういうことを肌で、本能的に感じてた、というのもあるのかもしれない。

 

僕が死ぬ時までじいちゃんは僕の中から消えることはない。

 

ずっと生き続ける。

 

じゃあ僕が死んだ後、誰かの中に生き続けられるだろうか。

 

そんなことはわからない。

 

誰かの中で生き続けたいとは思わないけど、生きた証は残したいな、と思う。

 

だから芸術が好きなのかな、と思ったりもする。

 

作品を作れば、地球が滅亡しない限りいつまでも残ってくれる。

 

曲を。

絵を。

 

高木大輔という人間はべつに誰かの中に残らなくてもいい。

 

だけど作品は残したい。

 

バッハ、モーツァルト、ヴェートーベンが作った曲が400年経った今なお、人々の心に響いてるように。

 

雪舟が描いた水墨画が400年経った今なお、人々の心を鷲掴みにしてるように。

 

そんな作品を作りたい。

 

ある程度の知識も技術も得た。

 

昔から「変な人」の烙印を押されてるから感性も豊かなんだろう。

 

後僕に必要なのは自分の中のものを一気に解放するだけ。

 

そのためには自分の心を解放しないといけない。

 

僕は今までそれができなかった。

 

40年以上。

 

でもいろんな人との出会いを通じてやっと人と心が通った気がする。

 

やっと解放できた気がする。

 

そうやって解放した心で作った作品は、まだこれを書いてる時点では音しかないけど、自分でも驚くほど解放感に満ちていて気持ちがいい。

 

これから先の人生、いつ死ぬかなんて誰にもわからない。

自分でもわからない。

 

平均寿命はどんどんのびてはいるものの、あくまで平均だ。

 

僕がその歳まで生きられる保証なんかどこにもない。

 

すべての準備が整った今、後は少しでも多くの作品を残すこと。

 

作品を生み出すことは命を削る作業で、そのたびに少しずつ寿命が短くなってる感じがする。

 

でもそれでいい。

 

命をかけるに値するという覚悟もできた。

 

そう思わせてくれたのはZIPPOだった。

これを書いてる時点ではまだまだ粗削りだし生意気だし経験値も浅いし文句ばっかり言うしとんでもねーやつだけど、僕の音楽に対する情熱をふたたび燃やしてくれた。

それだけの何かを感じさせてくれた。

音楽と向き合ってる時はホントにイキイキしてる。

生きることと死ぬことを考えたらすごくまっとうに生きてる。

 

日本という国は、自分を貫くことはなかなかさせてくれないことが多い。

でも僕をはじめ、それでいい、っていう人間もたくさんいる。

貫いて自分らしく生きてほしい。

 

その手助けをさせてもらえることが僕にとっての生きた証になる。

死ぬときに心の底から笑って死ねるように、僕自身も自分を貫いて残りの人生を謳歌したい。

 

ご清聴ありがとうございました。

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