こども食堂店主のひとりごと:謝って欲しいってどういうことだろう?

店主のひとりごと

おはようございます。

こども食堂【虎吉】店主・高木のひとりごとです。

 

今回のテーマは『謝ってほしいっていう感情って何だろう?』。

 

先日、友達としゃべってて向こうがちょっとこちらがイラッとすることを言ってきた。

 

でも向こうはそんなこと知る由もなく、面白いぐらい通常営業だったのですぐにどうでもよくなって、イラっとした感情は収まってそのまままた会話を続けた。

その後は特に何事もなく楽しく会話が続いたんだけど、そのイラっと瞬間、僕の頭の中にはとっさに「何で謝らへんねんコイツ?」という言葉が浮かんだ。

 

もし逆の立場で相手をイラッとさせてしまったと思ったら、すぐさま「あぁっ、ゴメン!」って謝ると思うのだが。

 

あとでひとりになった時、そのことについて考えてた。

そもそも友達はこっちがイラっとしたことさえ知らないのだから謝るわけねーか、と。

そんなことよりも。瞬間的に出てきた「何で謝らへんねんコイツ?」に僕は少し戸惑いを覚えた。

 

これまで生きてきた中で、似たような場面を何度もみてきた。

こどもが悪さをして怒られてる時。母親に「ごめんなさいは?」って言われてたり。

大人が同じように何か悪いことをして「謝れや!」って言われてたり。

 

でも僕自身、今までイラっとした相手に対してそんなことを口に出したことがあんまりなく、、、てゆーか「謝れ」なんて思ったことすらない。

イラっとしてもそれは瞬間的なもので、すぐに冷静になる便利な性格なので、謝罪を要求するなんてみっともないとすら思ってた。

 

でもたぶんそれは僕自身が相手を信用していなかったからで、そういう感情をみせることに対して抵抗があったからに他ならない。

それは僕が心を閉ざしていたことに大きく関係する。

 

でも今はとっさにそんな言葉が頭を支配した。

それは自分の中ではありえないことだった。

なぜそんな、今までだったらみっともないとすら思っていた言葉が自然と出てきたのか?

不思議でたまらなかった。

 

「謝れ」

 

これははたから見たら大きな奢りがあるようにもみえる。

 

要するに「謝れ」っていう心理状態は相手をかなり下にみていて、「おれを不快にさせたんだからそれに対して詫びろ」と言っているとらえることもできる。

それは僕の性根が歪んでいるからそういうふうにしかみえなかったんだけど。

でも僕はそんな場面を何回もみていて、どうしても違和感があった。

 

人に言われて謝る

 

っていうスタイルに。

悪いことをしたと思ったのならその瞬間に謝罪の言葉が勝手に出てくる。

人に言われたから謝るなんて誠意もクソもないじゃないか、と。

 

それがまだ小さいこどもならまだ仕方ない。

 

僕も何回もこどもに言ったことはあるけど、それは悪いことをしたら自分から謝る、っていうことを覚えさすためだ。

こどもは自分を中心に世界が回ってるから他の人がどうだとかそんなことは関係ない。

そうやって人の気持ちを知っていく。

つまり謝ることを覚えさせるのではなく、人と自分とは感覚が違うからどこで不快になるのかのポイントを知りなさい、ってことだ。

 

でもそれが大人の場合。

 

いろんな人と関わって生きてきてるから何をしたら人が不快になるかをある程度はわかってるはず。

人に謝れって言われるってことは、言われるまでそれが不快だなんて1ミリも思っていなかったってこと。

 

お互いをよく知ってたら細かいところまで理解してるけど、ふと何気なく放った言葉が相手の気分を悪くさせることもある。

 

でも本人にその自覚はない。

 

悪いことをしたっていう自覚がない時点で感覚のズレが生じてるってことだ。

 

「謝れ」

 

っていう言葉はとっさに出ることが多いと思うんだけど、それは「なんで悪いことしてんのに謝らんねん」っていう意味も含まってるんだけど、もう少し角度を変えてみると「おれはそういうことされるのは不快やねん」っていうある種のお知らせの意味もある。

 

だから相手も「悪いことをしたことは知ってるけど謝らないよ」ではなく、「オマエの価値観なんて知らんがな」なのだ。

 

お互いをよく知ってる間柄ならそういうことはあまり起こらないのかもしれない。

 

僕は友達とはお互いをとてもよく知ってるつもりでいる。

たぶん向こうもそう思ってくれていると信じてる。#違った時の絶望感

 

それでもそういうことが起きてしまった。

 

つまりミリ単位ではまだまだ知らないことがある、ということだ。

 

お互いをよく知る間柄っていうのは大人になればなるほど少なくなる。

知っててもお互い時間が合わなくて会う頻度も少なくなる。

会わない時間が増えるってことはそれに比例して感覚のズレが生じる可能性が増えるということ。

それがあったからそういう感覚のズレが生まれた。

何も気を使うことなく放った何気ない言葉で僕は不快を感じたけど、それは決して友達に僕に対する奢りがあったというわけじゃない。

 

むしろ逆で、僕に対して気を許しているからこそ何でも言えるのだ。

 

逆に気を使ってたらもっと丁寧に言葉を選んだんだろうなと思うし、そこまで会話を楽しめない。

 

たまたまそこにミリ単位の感覚のズレがあって僕が不快になる言葉を放っただけの話。

 

お互いをよく知ってるつもりの間柄ってそんなにないと思うんだけど、それでもそういうことが起こるんだから、ほとんどの人同士は不快になる可能性を大いに秘めているということ。

 

世の中が窮屈に感じるのはそんなことにも原因があるのかもしれない。

人と人との距離が遠くなった現代。

そこまで人の心に踏み込むことがなくなってしまった。

するとコミュニケーションがとりづらくなる。

そうなると感覚のズレはより大きなものになっていく。

 

人が深層で何を考えているのかわからないから顔色をうかがいながら生きるようになってしまった。

だから表層の部分だけ取り繕って、みんな優等生を演じてるみたいになってる。

ちょっとでも悪く言ったりするとすぐ叩かれるからね。

虎吉のテレビ取材がお蔵入りになったのもそういうこと。

でもそんな優等生ばっかりの世界なんて面白くもなんともないよね。

 

ご清聴ありがとうございました。

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