謝って欲しいってどういう感情なんだろう?:こども食堂店主のひとりごと

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torakchi

こども食堂【虎吉】店主。整体師。音楽家。水墨画家。バツ3。元女性風俗セラピスト。元PA(音響)。

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店主のひとりごと

おはようございます。

 

こども食堂【虎吉】店主・高木のひとりごとです。

 

本日のテーマは『謝って欲しいってどういう感情なんだろう?』。

 

悪いことをした時、人は申し訳ない気持ちになり謝罪をする。

「ごめんなさい」と自然と出てくることもあるし、相手に「謝れ」と言われて出てくることもある。

 

その「謝れ」という言葉を出して欲しい時、人は「謝ってほしい」という気持ちになっている。

 

でもその時点で、相手から謝罪の言葉はなかったということ。

 

なのに相手に謝罪を求める「謝れ」という言葉。

 

人に言われて出た「ごめんなさい」ほど効果の薄いものはないけど、怒りの感情でいっぱいになってる時ほど謝罪を求める人はいる。

 

そして案の定、そうやって出た「ごめんなさい」は、言われて仕方なく出たもの。そこに対してまた怒りが増幅する。

 

冷静になって考えてみるとすごくエネルギーのムダ遣いをしてるこの現象。

 

考察してみた。

 

謝らせる人の心理

 

世の中には「謝れ」という人が一定数いらっしゃる。

「謝りなさい」とか「謝って」とか言い方が多少変わったりすることもあるけど、基本的に中身は同じ。

 

「おれが不快な気持ちになったんだから詫びろ」

 

と言っている。

 

すごい傲慢である。

 

でも「謝れ」って言って謝らせたところで、そこに謝罪の気持ちはない。

 

形だけ謝ったところで、真の解決にはならない。

 

土下座なんかはその典型的なやつ。

 

こうした形だけの謝罪は基本的に「頭を下げる」というオプションがついてくる。

 

だがしかし。その顔には謝罪の気持ちなんか1ミリもない。

かろうじて顔は作れたとしても心は謝罪なんかしていない。

人は言葉では何とでも言える。

 

態度や行動がともなってなければその言葉には何の意味もない。

 

「頭を下げたり土下座をする」

 

という行為は形だけみれば深い謝罪をしてるようにみえる。

でもやっぱりそれも形だけで、謝る気持ちなんか1ミリもない。

 

でも謝らせたい人は下がった頭をみることで機嫌が多少直ったりする。

 

要するに相手をひれ伏させることができたらそれで満足ということだ。

 

相手の行動の中身なんかみていない。

なんて薄っぺらい人間なのだろう。

 

そう考えると、日本って形だけの謝罪蔓延してる国だなぁと思う。

 

懲役刑なんかもそうだ。

 

悪いことをして逮捕されて謝罪の気持ちがなくても、とりあえず懲役〇年とかをクリアすればまた自由の身になれる。

 

服役中に改心して人が変わる人もいるけど、何にも変わらずにまた同じことを繰り返す人もいる。

 

中には完全に冤罪で、形だけの謝罪をさせられて何年も刑務所生活を送る人もいる。

大昔の日本にはそれで腹を切らないといけなくなってしまった人もたくさんいた。

 

切腹は相当の覚悟がいる。

 

自分は何もやってない!って強く思ってたとしても、家族や名誉を守るために「形だけの謝罪」をした人の気持ちを思うと胸が痛くなる。

 

どうかしてるぜニッポン。#他の国でもだいたい同じ

 

 

感覚のズレが生じてるから謝ってほしい

 

人は基本的に申し訳ないことをしたらすぐに謝罪の言葉が出る。

 

たとえば、ついうっかり足を踏んでしまった時とか。

 

とっさに「あぁ!ゴメン!」って出てくる。

 

言葉だけじゃなく、踏んでしまった足を撫でたり、「大丈夫?」と聞いてみたり、行動や態度にも表れる。

 

それは「足を踏まれたら痛い」ということを知っているから。

 

そんなことは誰でも知ってる。

 

そんな時でもすぐに謝罪の言葉が出てこなかったり、何事も無かったかのような態度をとる時は、わざとやってるか「足を踏まれたら痛い」ということを知らない。

 

小さいこどもにはありがちだ。

 

こどもはまだまだ経験が浅いから、他の人がどう感じてるかなんてわからない。

 

だから平気で人の足を踏んでいく。笑

 

足を踏んだり痛い思いをさせるのは、相手が痛がったりしてるからまだわかりやすい。だけど言葉とか行動で相手が不快になるとかは言われないとわからないこともある。

 

小さいこどもが親に「ごめんなさいは?」と言われてるのはよくある光景。

 

僕もこどもに対して言ったことは何回もある。

 

それは悪いことをしたら自分から謝る、っていうことを覚えさすためだ。

他にも、「人と自分とは感覚が違うから、どうなったら痛いのか、どうしたら不快になるのかのポイントを教える」という意味もある。

 

そうやって少しずつ人の気持ちを知っていきながら、人間社会を知っていきながら大人になっていく。

 

でもそれが大人の場合。

 

いろんな人と関わって生きてきたから「人が何をしたら不快になるか」をある程度は理解してるはず。

 

人に「謝れ」って言われてるってことは、言われるまでそれが不快だなんて1ミリも思ってなかったってこと。

 

お互いをよく知ってる間柄だったら。細かい所まで理解してたら、言葉を放ったり行動を起こしたりする前に「これやったら(言ったら)相手が不快になるだろうな」っていうブレーキがかかる。

 

でもお互いをよく知らない場合、その感覚のズレがあるから不快になることでも平気でやってしまう。

 

「謝って」

 

っていう言葉には「なんで悪いことしてるのに謝らんねん」っていう意味と、少し角度を変えてみてみると「おれはそういうことをされるのは不快やねん」っていうお知らせの意味もある。

 

だから謝ってと言われた側は「悪いことをしたことは知ってるけど謝らないよ」ではなく「オマエの感覚なんて知らんがな」なのだ。

 

でもそういう時に出てくる言葉は「痛っ!」とか「なんでそんなこと言うん?」とかで、「謝って」って言うことはほぼない。笑

 

だけどその言葉の中には「謝って」が含まれる。

 

これはお互いがよく知ってるつもりの間柄でも起こりうる。

 

学生時代は学校で毎日顔を合わせてても、社会人になると会う頻度が少なくなる。

 

そうすると日々の生活の中で価値観も変わって感覚のズレが生じる。

 

そんな中、久しぶりに会って話をしてる中で何気なく放った言葉で相手をイラッとさせてしまうこともある。

 

こうした感覚のズレが生じることで、「謝ってほしい」という気持ちになる。

 

「謝ってほしい」は仲がいい証拠でもある

 

「謝ってほしい」という気持ちが出るということはちょっと角度を変えてみれば、仲がいいって捉えることもできる。

 

先日。友達「A」としゃべってて、Aが放った言葉にちょっとイラッとしたことがあった。

 

その「イラッと」はほんの微々たるもので、その感情が表に出ることはなく、すぐにおさまった。

 

Aは僕がちょっと「イラッと」したことなんて知る由もなく、そのまましゃべり続けた。

 

その後は何事もなく楽しく会話ができたんだけど、イラッとした瞬間は間違いなくほんのちょっとだけ「謝ってほしい」という気持ちが生まれていた。

 

仮に僕がその感情を表に出して、Aがそれを察していたら。

たぶんAはすぐに「あぁっ、ゴメン」って言ってたことだろう。

 

でもその時はそれで話の腰を折ることの方がイヤだなと思ったから感情は出さなかった。

 

僕は心を閉ざしがちな引きこもりオタクなので人に対して感情をあらわにすることはほとんどなく、押し殺すのがクセになっている。

 

だからAに対して自分の感情を出すことを控えた。

 

同じような場面で感情をあらわにすることができるということは、相手に対して心を許してるという証拠でもある。

 

気を使わずに何でも言い合える。

 

だからこそ出てくる「謝ってほしい」という気持ち。

 

そこには「おれそれ不快やからやめて」という意味とともに、もっと深いところには「もっとあなたと意思疎通がしたい」「分かり合いたい」という意味もある。

 

もっとそれができてたらいろんな人と仲良くなれてたかもしれないな。

 

世の中が窮屈に感じるのはそんなことにも原因があるのかもしれない。

 

人と人との心の距離が遠くなった時代。

 

そこまで人の心に踏み込むことがなくなってしまった。

するとコミュニケーションがとりづらくなる。

そうなると感覚のズレはより大きなものになっていく。

 

人が深層の部分で何を考えてるかわからないから顔色をうかがいながら生きるようになってしまった。

だから表層の部分だけ取り繕って、みんな優等生を演じてるみたいになってる。

 

ちょっとでも悪くいったりすると叩かれてしまうから。

 

虎吉のテレビ取材がお蔵入りになったのもそういうこと。

 

ご清聴ありがとうございました。

 

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