こども食堂店主のひとりごと:「つきあう」は呪いの言葉

店主のひとりごと

おはようございます。

 

こども食堂【虎吉】店主・高木のひとりごとです。

 

今回のテーマは『「つきあう」は呪いの言葉』。

 

中学生あたりになると頻繁に出てくる「男女問題」。

 

その時に使う言葉として多いのが「つきあう」という言葉。

恋人同士の証みたいなもの。

 

この言葉は呪いの言葉なんじゃねーかなと最近思い始めたのでここに書き留めて置こうと思った次第です。

 

だいたい10歳前後でなんとなく意識し始める異性のこと。

 

早い人はもっと早くに自分以外の人のことを好きになる。

 

その時に出てくるのが「つきあいたい」っていう欲望。

 

この「つきあう」っていう言葉は実に曖昧なシロモノで、明確な基準なんかない。

 

始まりがいつなのか。

どこからがつきあってることになるのか。

 

一般的にはどちらかが自分の気持ちを伝えて、相手が承認すればそこからつきあい始めたことになる。

そしてそこからふたりの関係が深まっていき、それはいずれ肉体関係にも及んでいく。

 

多くの人の認識として肉体関係にまで及ぶのは「つきあっている」という事実があればこそ。

 

さっきから一般的にとか多くの人のとか、すげー曖昧な言葉を連発してるけど笑

 

そこに明確な基準なんかないからしかたない。

 

話を戻そう。

 

一般論としてつきあってもないのに肉体関係になることはあまりよろしくない、とされている。

 

特に中学生、高校生ぐらいの若年層ならその傾向は顕著だ。

 

この「つきあう」という行為は、いわば擬似結婚のようなもの。

 

結婚する前にお手軽にそういう経験を積むためにあるといっても過言ではないのではないか、と。

 

そう考えるとこの「つきあう」という行為は必要不可欠にも思える。

 

なんせ手続きなんか何もいらないし、口約束だけで成り立つ世界だ。

 

本人同士が認識さえしていればそれでいい。

 

でもここに本日のキーとなるところがあって。

 

本人たちの認識さえ合っていれば成り立つ世界なんだけど、この基準が合うことってほぼほぼないのが現実。

 

プラスの部分だけみれば「つきあう」っていう行為は、ふたりの仲が進展するために必要なことではあると思うんだけども。

 

仲が良いうちはそれでいいと思う。

 

でも必ずしもそればっかりとはいかないのが人間。

 

つきあってるからこのぐらい当然でしょみたいなことが平気で起こる。

 

難しいのは浮気の線引き。

 

どこからが浮気か論争はおそらく人類が滅亡するまで尽きることはない。

たぶん猿の時代からそういうのはあると思うんだけど。

 

人間は独占欲が強くて脆い生き物だから、たいていの場合自分のパートナーが他の人と仲良くしてるのが許せない。

 

だから「つきあう」ことでその行動を制限しようとする。

 

いわばつきあうっていうのはその人の独占所有物になることと同義。

 

…ととらえる人が圧倒的に多い昨今の世の中。

 

人は自由な生き物なんじゃないのかい?

 

自由に行動した結果、パートナーのとなりがいちばん落ち着く場所なのであれば必ずそこに帰りたいと思うものなんじゃないのかい?

必要なのはそういう人間であるために常にアップデートを繰り返して自分を磨くこと。

 

そうすれば自ずと帰ってくるようになるよ。

 

「つきあう」っていう不確かな鎖で縛って、本当に満足か?

 

常に精進し続けられる人間であれば「つきあう」なんて不確かなものに頼ることなんてなくなる。

 

その縛りは人の心の安らぎを生むと同時に、自由を奪うものでもある。

 

多くの場合、そこで安らぎを感じる人間はその時点で満足してしまって、そこから成長しようとしていない。

 

だから不平不満しか言わなくなる。

 

不平不満しか言わない人は自分のことしか考えてない。かつ自らの成長なんか1ミリも考えていない。

 

そして早期にふたりの関係は破綻を迎える。

 

「つきあう」っていう言葉は呪いの言葉だ。

 

呪いと安らぎは紙一重。

 

その言葉によって救われる人もいれば堕ちていく人もいる。

 

すべてはとらえかた次第。

 

ご清聴ありがとうございました。

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