第二次世界大戦の裏側を赤裸々に綴ったじいちゃんの戦争日記:こども食堂店主のひとりごと

店主のひとりごと

おはようございます。

 

こども食堂【虎吉】店主・高木のひとりごとです。

 

本日のテーマは『第二次世界大戦の裏側を綴ったじいちゃんの戦争日記』。

 

地上波で長らく8月15日あたりに放送されてた「火垂るの墓」。

 

ジブリの高畑勲監督の作品がNetflixで配信されるようになって、すぐみた。

 

戦争のことは体験したことがないから全然わからないけど、たぶんあんなもんじゃないんだろうな、ってのはなんとなくわかる。

 

映画だからオブラートに包んだ表現になってところもあるんだろうな、と、超個人的な見解。

 

それでもみてると胸が張り裂けそうになるほどツラい気持ちになる。

でも作品としては素晴らしい。

 

どうしよう、このジレンマ。

 

戦争ものの作品が全世界で数多く存在してて、どれもこれもみる度に「戦争って怖いな」としか思わない。

でもその怖さを伝えるのが作品を作った人たちの想いだから、需要と供給はすごい形で成り立ってる。

 

そんな中、強烈な生々しいものを紹介しようと思って筆をとった次第でござる。

 

じいちゃんの衛生兵時代の日記

 

僕のじいちゃんは昭和…じゃなくて大正9年生まれ。故人。

戦争に行った事がある人。

 

じいちゃんは軍隊にいた頃衛生兵で、負傷者を手当したり、父島で硫黄島への物資輸送の任務に携わってた。

 

だから特攻に行ったり銃を持ったりとかはなく、ほぼ軍の施設にいて任務を遂行しながら、その合間に日記を書いてた。

 

その日記は戦争に対する思いとかを赤裸々に綴ったもので、当時にすればとんでもないものだった。

 

「大日本帝国」の名のもとに、当時の軍隊の規則では発言の自由などなく、思ってることや事実をありのままに書くことは非国民だとして制裁を受けたりした。

戦争に敗れ、除隊の際にもその日記を持ち帰ることは原則として許されなかった、と。

 

でもとある事情により2冊の日記を持ち帰ることに成功した。

 

とんでもねーじいちゃんだ。笑

 

相当イカれてる人間だったんだろな。笑

 

僕はよく「変な人」と言われるけど、それは血筋だったんだ。

じいちゃんの血をちゃんと継いでるんだなぁと感慨深かった。

 

そして父島から持ち帰った日記と、自分の記憶を頼りに戦争の悲惨さを後世に伝えようと本を自費出版した。

 

吾が従軍記

 

じいちゃんは孫の僕にこの上ないぐらい優しくて、1回も怒られた記憶がない。

 

おじいちゃんの思い出:こども食堂店主のひとりごと

 

孫には優しかったけど、息子たちには鬼のように厳しかった、と父は言っていた。

 

時代的にもそれが当たり前だっただろうし、戦争を生身で体験したからこそ、命の尊さを肌で感じたからこそ、自分のこどもに対しては厳しく接してたのかなーと思ったり。

 

大人になって親になってから話したいことがどんどん出てきて、もっとじいちゃんのことが知りたいと思った時にふと思い出したのがじいちゃんが自費出版した本のことだった。

 

タイトルは『吾が従軍記』。

この本を出版したのはぼくがまだ高校生ぐらいの時。

 

その時は心が荒んでたので、とてもじゃないけど読む気にはなれなかった。

 

読んだのはじいちゃんが死んでから。

 

その時には荒んでたのもだいぶ落ち着いて、自分と向き合い始めてたので、しっかり読むことができた。

 

内容もスっと入ってきて、じいちゃんの戦争に対する想いとか、家族に対する想いとか、なんかいろんなものが僕の心に響いた。

 

もっと早く、せめてじいちゃんが元気な時に読めばよかった。

 

これはもっといろんな人に知ってもらった方がいい。

 

かつて日本はどんな国だったのか。

当時の人たちはどんな思いで戦争に加担していたのか。

 

戦争って何なのか。

 

平和になったようにみえる今の日本だけど、ホントに平和なのか。

 

いろんなことを考えさせられる。

 

その一部をご覧いただいて候。

 

目次

発刊に寄せて

はじめに

第一章  初めて軍服を着て

第二章  杏樹陸軍病院に転属

第三章  日記抄ー昭和十六年ー

第四章  日記抄ー昭和十七年ー

第五章  日記に記せなかったできごと

第六章  短い帰国

第七章  再び召集される

第八章  父島での戦い

第九章  硫黄島の地獄

第十章  最後の戦い

第十一章 日本へ

あとがき

電子書籍化してるのでよろしかったら読んで買うてもろて♥

Amazon.co.jp: 吾が従軍記 (はまなす書房) eBook : 高木 繁: Kindleストア
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『今考えても当時の「初年兵教育」とは、「苛め」であり、「私的制裁」であったと思われる。「天皇陛下万歳」「大日本帝国万歳」と歓呼の声で送られてきた。命を国に捧げるために故国をはるばる北満の地まで来たのに、これが軍隊なのか。何が皇軍だ。死んでたまるもんか。そんな想いで、日曜日を除く連日連夜の点呼後に受ける「兵舎教育」に次年度の初年兵を迎えるまで一年三カ月間、歯を食いしばって耐えねばならなかった。

(中略)

「初年兵は自分の編上靴(ヘンジョウカ)を持って来い」各自手に提げた靴を、一人ずつ二年兵が手に取って靴裏まで返してみて検査する。
「貴様この編上靴を手入れしたのか」「はい」「これで手入れしたと言えるか、嘗めてみろ」「はい」
「嘗めろ。命令だ」強制的に嘗めさせられる。
点呼が終わると「初年兵は一列に整列」と班内中央の廊下に並ぶ。「第一釦を外せ」 二年兵の声に、首に一番近い第一釦を外すと、二年兵が前に来て襟布を剥ぎ取り、取り替えの有無を検査する。誰か一人でも取り替えていない者がいると大変、「貴様達はたるんどる。一人ずつ前へ出ろ」牛草製上靴の爪先の方を持ってピシャリ、ピシヤリ。踵の固い皮が頬を打つ。次、ピシャリ、ピシャリ。次、眼鏡を外せ、ピシヤリ。』
——–本文より

『その日背の高い豪州兵が入って来た。通りすぎるのを待って、手榴弾を投げ付けたが発火しなかった。逃げ出した敵兵は入口にハッパをかけ、硫黄弾を投げ込んだ。黄燐弾の苦しさは言葉に表現出来ない苦しさで、私達は手で土をかき分けて、そこに顔を埋め、辛うじて呼吸する始末だ。壕内には死体が累々として悪臭を放っていたが、その死体に鼻を押し付けて黄燐弾を避けなければならなかった。
そんな時、八木上水が石に挟まれ、悲鳴をあげた。石は動かなかった。苦しみに悶える八木は、手榴弾で自決するという。手のほどこしようもない我々は、やむを得ず手榴弾を発火させて渡そうとしたが、なかなか発火しなかった。今度は「拳銃で頼みます」という。こればかりは私には出来なかった。全員が泣きながら八木の苦痛を見守っているうちに、手榴弾が発火爆発した。八木は永久に苦痛から解放された。』
——–本文より

『戦争を知らない子供や、孫達に、出来れば若い世代の人達にも二度と繰り返したくない戦争の悲惨を伝え残したいと思うようになりました。

(中略)

今は亡き元福田総理大臣が「人命は地球より重し」との名言を残されましたが、日本軍隊の最高指導者達にこの心があったなれば、数百万の戦死者を出さないで、もっと早く戦争を終結し、原爆などを投下されなくて済んだものと私は考えます。
戦争が風化されつつある現在、軍隊というしがらみのなかで、常に「死」と隣り合って戦い、日本国のためと信じて、やむなく果てた兵隊達の霊に対し、特に隣接して戦って玉砕した硫黄島の英霊、並びに父島よりわが船舶工兵独立中隊員が、硫黄島に向け、物資輸送中に戦死した戦友に対し、心より慰霊の書として捧げたいと思います。』
——–あとがきより

第二次世界大戦終戦から80年。

こんな思いをした人は数えきれないぐらいいて、僕らが平和に生きていられるのはその人たちのおかげ。

彼らが望んだような未来になってるのかはわからないけど、精一杯生きることでしか僕らはそれに応えることができない。

 

いまだに戦争がなくなることはないけれど。

いつかじいちゃんたちの願ったような世界になるのかなぁ。

 

 

ご清聴ありがとうございました。

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