作品に思いやりがなくなった:こども食堂店主のひとりごと

店主のひとりごと

おはようございます。

 

こども食堂【虎吉】店主・高木のひとりごとです。

 

本日のテーマは『作品に思いやりがなくなった』。

 

昔はよかった。

 

今まで生きてきた中でそんなセリフを何回も聞いたことがある。

 

あなたにとっての今は幸せではないのですか?と聞きたいけどめんどくさいからそのまま。

完全にスルーしてたけど、大山版ドラえもんの映画をみててふとその言葉が頭をよぎった。

 

たしかに。笑

 

ドラえもんに関して言えば完全に昔は良かったが当てはまる。

声優交代の時にもう終わってればよかったじゃん、って思うこともあったけど、今を生きてるこどもたちにもドラえもんという作品が新しい形で届いてるからそれはそれで素晴らしいことなんじゃなかろうか、と思えるようにもなった。

 

でも、形あるものいずれ滅びる。

 

終わってしまったものは二度と戻らないので、僕らはそれを思い出にして胸の中にしまっておけばいい。

 

ありがたいことに今の時代はNetflixという素晴らしいものがあるので、いつでもその思い出を呼び起こすことができて、その当時の感情に身を委ねることができる。

 

こんな素晴らしい時代に生まれて、いろんな体験ができて幸せだ。

 

いろんな体験ができたこども時代。

スマホがなくても何かしら工夫して楽しめた。あれはあれですごく楽しかったなーと今でも思う。

 

時代も違うし環境も全然違うから遊び方も全然違うけれど、根本的なところは同じ。なんでも全力で楽しむことの大切さを次の世代のこどもたちにも味わってほしいと思いながら僕は虎吉を運営している。

 

でも残念ながら時代はそうはさせてくれない。

 

いろんなことが限りなく自由に近かった僕らのこども時代はいろんなものに胸が踊った。

 

たとえばテレビ。

 

僕は引きこもりだった(絶賛継続中)けど、テレビが大好きというわけじゃない。

 

興味のある番組以外は見ようという気が起こらなかったので、みるものといえばアニメと志村けんぐらい。

 

志村けんのだいじょうぶだぁとかカトちゃんケンちゃんごきげんテレビ、ドリフの大爆笑なんかはテレビにかじりついてみてたもので。

 

志村けんは僕の親よりも歳が上だった。

 

にもかかわらず、こどもみたいにはしゃいで僕らを楽しませてくれてる。

 

こんな大人に僕もなりたい。

 

僕の人生の目標はその時に定まった。

 

今。

 

テレビはまったく面白くないシロモノになってしまった。

 

でも、テレビ局のプロデューサーの方とお話をする機会があって、その方は僕と同世代。

 

その方も同じようにこども時代にテレビに胸が踊ってかじりついてみてた。

 

だからこそ今は作り手側の仕事に就いている。

 

その方はものすごい葛藤の中で生きていることを知った。

 

面白いものを作りたい。

 

でも時代がそれを許してくれない。

 

コンプライアンスで規制がかなり厳しくなって思うようなモノづくりができない。

 

それを嘆いておられた。

 

そりゃそうだよな。

 

作り手側はいつだって鑑賞者の胸を踊らせたいハズだ。

 

そうじゃなきゃ夢も希望もないじゃないか。

 

その方と話してテレビにもまだまだ希望はあるんだな、って思った。

 

とはいえ。

 

世に放たれる作品はつまらないものが多い。

テレビはもうこどもたちはみていない。

 

テレビに限らず。

 

音楽も。

薄っぺらいものばかりだ。

音楽はテレビと関係が深いからしょうがないのかもしれない。

 

事実、テレビとは関係ない人たちの音楽は素晴らしかったりする。

 

今の時代は個人で発信することがハナクソをほじるぐらい簡単にできる。

 

そしてそれをいろんな人に届けることも可能になった。

 

テレビは発信方法のひとつにすぎない。

 

誰もみてないテレビで発信する意味がなくなったから、やりたければ個人でどんどん発信すればいい。

 

テレビはいろんな人がみる、っていう前提で番組が作られる。

ゆえにいろんな規制がかかったりする。

 

いつしか上岡龍太郎氏が言ってたことが現実になってしまった。

どうしても、作品を作る時にそういう規制が頭をよぎってしまう。

 

そうすると作品にかける熱量の比重が少なくなる。

 

そんな作品でも一定の人はみてくれるから関係者の皆さまはGOできる。

でも届けられた側はやっぱりどこか違和感が残ってしまう。

 

それを繰り返し積み重ねた結果、誰もテレビをみなくなった。

 

そんなテレビを作る側の気持ちは一体どんな脳内なんだろう。

 

ドラえもんをNetflixでみてる時にふとそんなことを考えた。

 

Netflixでのドラえもんは映画が公開された時のそのままのもので、何も手を加えられていない。

 

だからこそ僕は毎晩寝る時の子守唄代わりにできる。

安心して作品に触れながら眠りにつくという至福の時間を過ごすことができる。

 

作り手は大人だ。

 

そこには彼らの思いやりがあふれている。

 

ドラえもんが好きなこどもたちが胸を踊らせることができるように、何回も作品に触れたくなるように、そんな想いで作られている。

 

作画、音楽、声優、いろんな人たちがそこに想いを馳せて、作ることを楽しんでやってる。

 

それは、そういう環境があったからだ。

 

規制は皆無ではなかっただろうけど、今ほどキツイものじゃなかった。

 

だからこそ自由に作品を作ることができた。

 

志村けんだってそうだ。

 

視聴者を喜ばせたい。

 

その想いがあふれてたからこそ、僕は心の底から胸が踊った。

だからこそ憧れを抱いた。

 

今、これ以上規制をかけるとダメだろうなっていう限界地点まで来てる気がする。

 

いや、もうたぶんもう超えてる。

 

だからいろんな人がテレビから離れている。

 

僕もそのひとりだ。

テレビから人が離れていったように、このまま芸術は廃れてなくなっていくのか?

 

いや。

歴史は繰り返す。

 

江戸時代とかでも今みたいな現象は起こっていた。

 

第二次世界大戦中、発言にまで規制がかかった時代もあった。

 

それを乗り越えて自由に発信できる時代に一度はなった。

 

世の中にはまだまだ知られてない人が今もどこかで人々の胸を踊らせるような作品をシコシコ作っているはずだ。

 

もう一度自由に発信できる日が必ずくる。

 

人間は自由だ。

 

ご清聴ありがとうございました。

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