真面目に生きるの定義:こども食堂店主のひとりごと

店主のひとりごと

おはようございます。

 

こども食堂【虎吉】店主・高木のひとりごとです。

 

本日のテーマは『真面目に生きるの定義』。

 

 

やる気なさそう。

真面目にやれ。

ふざけてんの?

 

 

これまで散々言われてきた言葉。

 

当の本人はいたって真面目にやってるつもりだけどなぜかそう言われることが多くて、ムキーーー!ってなってた。

 

人によって真面目の度合いとか、何に対して真面目なのかっていうのは違うのに。

 

少なくとも「散々言われてきた言葉」を僕に投げつけてきた人たちは僕のそういう細かいところはみる気もなくて、自分の中のモノサシでしかみていない。

 

じゃないとそういう言葉は出てこない。

 

真面目にっていうのは真摯に物事と向き合うこと。

日本語としては僕の真面目はちゃんと成立してるはず。

 

でも一般的に「真面目」っていうと、ちゃんと学校に行って勉強もして素行もよくて、っていうイメージ。

 

僕は学校には毎日ちゃんと行ってたけど、授業中にマンガ読んだり、学校内でタバコ吸ったり先生とケンカしたりで素行が悪く、一般的な「真面目」とは程遠いところにいる人間だった。

 

それでも僕は真面目に生きてるつもりだったけど、そんなもの1ミリも伝わってなかった。

 

こちとらふざけて生きてるわけでは決してなくて、自分なりに大真面目に生きてるのにそういうふうに言われてしまうのは不服でしなかった。

 

今は誰に何を言われようがどうでもよくなったし、言いたいやつには言わせておけばいい、っていう考え方ができるようになったけど、昔は「この人たちはバカなのかな?」って思ってた。

 

でもその反抗的な態度を表に出したところで、火に油を注ぐだけなので大人しく従うしかなかった。

 

世間一般的なイメージの「真面目」を演じることしか真面目ととらえてくれない我が国ニッポン。

 

でも。

冷静に考えてみよう。

誰のために生きるんだ?

 

「真面目」を要求する人たちが全責任を負ってくれるわけじゃない。

たとえば学校の先生。

真面目にやれって言うけど、その後のことはほったらかしで学校を卒業してしまえばもう知らん顔。

こっちのことを覚えてる先生の方が珍しい。

 

最終的に全責任を負うのは自分自身でしかない。

 

それなのに世間一般的な「真面目」なんかに従ってどうする。

 

しょせん世間一般的な「真面目」なんか時代によって変わるもの。

 

環境によっても変わる。

地域によっても変わる。

その都度合わせてたらメンタルもたないし、やがて自分を見失ってしまうことになる。

 

全部自分基準でいい。

自分がカッコイイと思えばそれをマネすることだって自分基準のうちだ。

 

その「カッコイイ」を探すことが人生のいちばん大事なところで、つまりは自分自身との戦い。

 

それをしない人の方が圧倒的に多くてみんな世間一般的な「真面目」に走っちゃう。

 

そっちの方がラクだから。

 

もっとみんなそれぞれ自分の中の「カッコイイ」をみつけてそこに向かって突き進めばいいのに。

 

でもできない。

 

だからか世間一般的な「真面目」の基準は今も昔もあまり変わってない感じがする。

学校に行って勉強を頑張ることが「真面目」ととらえられる。

 

だけどそれは普遍的なものではな決してなく、時代とともに変化していかないといけないものなハズ。

 

多少の変化はある。

 

個性が大事とか、個性を尊重するような風潮も多少はある。

 

でも、それってやっぱりホントに表層の部分だけで、内面のところは昔のまんまだ。

 

結局日本人は変化を恐れる人が多くて、しかも僕みたいな考え方はすごく少数派で、そんな人は変な人扱いされる。

 

だから余計に「真面目」を装う傾向にある。

 

むしろそっちの方が強いかもしれない。

 

だいたいの人は変な人扱いされることを極端に嫌がるし、事なかれ主義で目立つことを嫌う。

 

右へ倣えに流されてしまうから、「真面目」がエラいみたいな風潮ができあがる。

 

そんなもん全然「真面目」でもなんでもねぇ。

 

自分を好きになって、自分の思うようにやる。

その上で自分が何をしたいかを真剣に探す。

それが真面目だ。

 

自分を大切にしてくれる人、自分が大切にしたい人だけ大切にすればいい。

それ以外は別に迷惑さえかけなければ何でもいい。

 

みんながそうなれば面白いのになー。

 

ご清聴ありがとうございました。

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